父の葬儀からまだ一週間も経たないのに、婚約者の岸田俊とその母・ひみは、遺品整理で見つかった古い金庫の話で盛り上がっていた。
「金庫の中には宝石や現金があるかもしれないぜ」
俊は興奮気味に声を弾ませ、ひみも同じように目を輝かせている。親戚たちの冷たい視線には気づいていないようだった。
私はその場に立っているのが辛くなった。父を失った悲しみも癒えないうちに、彼らは財産の話しかしない。姉のり子はうつむいたまま、唇を噛んでいた。
「非常識だ」
誰かがそう呟くのが聞こえた。私はその瞬間、決意した。
「私は相続を放棄します」
その場で宣言すると、俊とひみは驚いて言葉を失った。
「ちょっと、何言ってるのよ!」
ひみが叫んだが、私はもう揺るがなかった。
その夜、俊とひみは私を呼び出し、考え直すよう迫った。
「マリエ、これは俺たちの未来のためなんだ」
「息子の将来がかかっているのよ」
「息子の将来? どうして私の父の遺産が関係あるの?」
私はますます疑念を深めた。
すると、彼らは次の手を打ってきた。俊が突然、婚約破棄を宣言し、り子と結婚すると言い出したのだ。
「僕はり子さんと結婚する」
「息子を幸せにできない人は、我が家の嫁にはなれません」
ひみは冷たく言い放った。
り子は驚きと困惑の表情を浮かべ、最初は拒んでいたが、俊とひみの執拗な説得に次第に心を閉ざし、最終的にはしぶしぶ承諾してしまった。
俊はり子と強制的に入籍し、父の遺産相続権を譲渡する書類に署名させた。り子は恐怖と従順さでいっぱいで、私の言葉は届かなかった。
そして、俊とり子の結婚披露宴の日。会場は華やかに飾られていたが、突然、黒いスーツを着た男たちが現れた。
「遺産を捜索したのはお前たちか。ならば、お前たちの父親が生前に作った借金を返済しろ」
男たちは借用書を広げて見せた。
私は震える声で言った。
「すみませんが、相続権はもう私たちにはありません。現在の相続人は、ここにいる俊です」
俊とひみは顔色を失った。
「こんな豪華な結婚式をする金があるなら、返せるだろ。誠意を見せろよ」
男たちは迫った。
俊は反論しようとした。
「私はマリエの父が作った借金については何も知らないし、関係もない。そもそも、その借用書だって正規のものですか?」
しかし、男たちはさらに追い打ちをかけた。
「証拠は父親に持たせた手持ち金庫の中にある。俺たちが燃やされないように金庫に入れて、父親に渡したんだ」
「借金は相続財産に含まれ、相続人が返済義務を引き継ぐ。父親が亡くなった今、その金庫ごと相続したものが責任を負わなければならない」
俊とひみは蒼白になり、言葉を失った。
「結局、その金庫は誰が持っているんだ?」
私は静かに答えた。
「金庫は、り子に署名させて相続権を奪った俊が持っています」
会場は一瞬で静まり返った。
「明らかに財産狙いじゃないか」
親戚たちの厳しい視線が俊に集中した。
「借金があるんだろ。この姉ちゃんが署名した以上、法的な責任から逃れることはできない」
男たちは俊とひみを厳しく責め立てた。
「お前たちが責任を持って返済するんだよ。どんな手を使ってでもだ。なんなら、手っ取り早く金になる仕事を紹介してやろうか」
俊とひみは恐怖に震え、披露宴は中止になった。
後日、り子は涙ながらに私に謝った。
「マリエ、ごめんなさい。私、勇気が出なくて、言われるがままにこんな事態を招いてしまって」
私はり子をしっかりと抱きしめた。
「大丈夫。私たちは二人きりの姉妹じゃない。あとは私に任せて」
その後、俊は何度も相続放棄を試みたが、取り立て屋は許さなかった。り子に署名させたのが仇となったのだ。
俊とり子は、両家同意の上で離婚した。俊とひみがすんなり同意したのには理由があった。俊は、り子が結婚を承諾しない時に、半ば強制的に体の関係を持とうとしたのだ。未遂に終わったが、り子の心には深い恐怖が残り、男性恐怖症になっていた。
私は訴訟を起こさない代わりに離婚に同意させた。訴訟を起こせば、り子の心をさらに傷つけることになるのは目に見えていた。
父の遺産問題は、結局俊に引き継がれることになった。ひみが俊を焚きつけて、支払い義務はないと裁判を起こしたが、法的な審理の結果、正規の利息に引き直した後の返済責任を全て俊が負うことが決定した。
それからというもの、俊とひみの日常は借金返済と取り立て屋からの追及に支配された。毎日が恐怖と逃走で満たされ、二人の間には常に緊張が漂っていた。俊の顔には疲労が深く刻まれ、ひみも精神的に限界に近づいていた。
やがて、俊の職場にも取り立て屋が現れ始め、同僚や上司からの冷ややかな視線を感じる毎日になった。俊は会社に迷惑をかけていることが明らかで、最終的には自己都合退職となった。
退職後、俊は新しい働き口を探すが、長年染みついた怠惰な性格は改善されず、また取り立て屋が常に追いかけるため、安定した職に就くことは難しい状態だった。仕事を点々としながら、絶えず借金返済のプレッシャーに苦しむ日々。少しの収入があっても、すぐに取り立て屋がそれを奪い去り、また新しい仕事を探すはめになる。
この過酷な状況は彼の心を徐々に痛めつけ、絶望の淵に立たされた。
そして、経済的圧力が極限に達し、ついにはひみ名義の持ち家を売却するはめになった。住む場所も失い、取り立て屋からの追及を避けるための逃亡生活。日々の生活はさらに厳しく、悲惨な状況が進行していった。
最終的に、俊とひみは社会からの完全な孤立を余儀なくされ、ホームレスとしての生活に突入した。かつての彼らからは想像もつかないほど痩せ衰えた姿となり、その存在は次第に忘れ去られていった。半年ほど経過した頃には、二人の行方が分からなくなっていた。
り子と私は、過去の苦しみを乗り越えて新たな一歩を踏み出していた。り子の心はようやく落ち着きを取り戻し、なんとか新しい職場で働き始めるまでになっている。
夕暮れ時、公園のベンチに座りながら、り子と私はこれからの夢について語り合った。り子は、自分の性格が生かせるように、子供たちにアートを教えるスタジオを開く夢を語ってくれた。遠い昔に見た姉の笑顔がそこにあった。
過去の試練が私たちを今日の私たちに成長させ、それぞれの夢に向かって進む勇気を与えてくれたのだと実感している。



