「ママと一緒に暮らすのに不満があるなら、お前が出ていけばいい。」
夫の雪夫がそう言った瞬間、私は心の中で決意した。きっかけがあれば、離婚しよう。
私は宮田秋野、26歳。雪夫とは3年前に結婚した。友人の紹介で出会い、気が合ってすぐに付き合い、1年後には結婚していた。
私たちが年齢の割に高級なタワーマンションに住んでいるのは、結婚時に義父が「老後にお金を持っていても意味がない」と一括でマンションを買ってくれたからだ。しかし、入居した直後、義父は脳梗塞で突然亡くなってしまった。
一人になってしまうからと、雪夫は義母との同居を進めた。雪夫は母親が大好きで、いわゆるマザコンだ。「ママと一緒に暮らしたいな」なんて言って、義母に甘えていた。義母も嬉しそうに涙を浮かべながら雪夫に抱きついていた。
今日も繰り広げられる親子の触れ合いに、私はため息をついた。
その後、義母は私たちの家に住むことになった。雪夫は義母と暮らし始めてから、明らかに毎日が楽しそうだった。一方、私は憂鬱だった。結婚する前から分かっていたことだが、義母はとんでもなく綺麗好きで、もはや潔癖症と言えるほどだった。
食卓に少しでも食事以外のものが落ちていると、「気分を害した」と言って食事をやめてしまうことが度々あった。風呂場の浴槽に一本でも髪の毛が落ちていれば大騒ぎし、掃除を始めてしまう。
同居し始めた当初は戸惑ったが、どこを注意すればいいかというポイントも次第に把握し、慣れていった。潔癖症に関しては気が楽になっていった。
ただ、他にも理由があった。義母は私にはとても厳しいが、雪夫にはとても優しいというか、甘い。雪夫が仕事から帰ってきてインターホンを鳴らした瞬間、玄関のドアの前で待ち、ドアが開くと同時に雪夫の手から鞄を受け取り、着替えなどを手伝っている。
義母はその後、「お風呂が先か、夕食が先か」と雪夫に聞く。雪夫が「お風呂が先」と言うと、すぐ新しいタオルと着替えを用意し、時には背中を流してあげているようだ。そして雪夫が風呂から出てくると、タオルで体を拭いてあげていた。
夕食については、同居を始めた時に義母が「雪夫の好き嫌いは自分が全部分かっているから、雪夫の食べるものは私が作る」と言ったため、それ以降私は雪夫の食事を作らなくなった。
そんな毎日を過ごしているうちに、だんだんと私の居場所がなくなっていっている気がした。義母は私と雪夫が話していると不機嫌になる。雪夫はそんな義母の機嫌を気にして、私とはあまり話をしなくなっていた。
ある日、私は雪夫に「私と義母のどちらが大事なのか」と聞いた。雪夫は「何をおかしな質問しているんだ。もちろんどちらも大事に決まっているだろう」と言った。私は「そうとは思えない」と言ったが、「気にするな」とばっさり会話を切られてしまった。
私は今後の夫婦としての生活が不安になった。
それから数日経った朝、私はとある現場を見てしまった。洗濯は私が担当しているのだが、義母は私が洗濯した後の自分の衣類を手洗いしていたのだ。私の洗濯では汚れが落ちていないと思っているのだろう。
私は呆れてしまい、ついつい義母に「私の洗濯では不満ですか」と言ってしまった。義母は見られてしまったことを慌てることなく、「別に不満ではないけれど、やっぱり自分で洗った方がいい」と堂々と言った。
「それなら次回からは義母の洗濯物は別のかごに入れてもらえれば、そのかごの洗濯物は一切触れません」と私が告げると、「なんて生意気な嫁なのか。こんな嫁では雪夫がかわいそうだ」と言い出した。
イラッと来たので、「どうしてかわいそうなのか理由をはっきり言ってください」と義母を問い詰めると、「私みたいな嫁と口を聞きたくない」というので、会話をそこで終わらせた。
その夜のことだ。雪夫が帰宅したら義母とのことを話そうと思っていたのだが、いつものように義母が雪夫の帰りを玄関で待ち構えていて、そのまま風呂場に行ってしまった。
風呂場で義母が興奮した口調で何かを話しているのが聞こえる。おそらく私の悪口を言っているのだろう。
風呂場から出た雪夫は私を一瞥した後、何も言うことなく夕食を義母と一緒に食べ始めた。
そして夕食後、寝室に入った途端、雪夫は興奮した口調で私に詰め寄り始めた。
「お前、ママにひどいことを言ったらしいな。どうしてママをいじめるんだ?」
私が「ひどいことは言ってないし、いじめたりもしていない」と言うと、「義母は私にいじめられたって泣いていた」と言った。
そこで私は雪夫にこう訪ねてみた。「雪夫はお母さんの言ったことばかり信じて、私のことは信じてくれないのね。」
すると、はっきりとこう言ったのだ。「生意気なこと言うなよ。俺はママのことを信じるからな。一緒に暮らすのに不満があるなら、ママと2人で住むからお前が出ていけばいい。」
私は雪夫にそう言われた瞬間、結婚しなければ良かったと感じた。そして、何かきっかけを作ることができれば離婚したいと思うようになる。いや、むしろ離婚するきっかけを私は心待ちにしていた。
それから2ヶ月ほど経った頃の朝、私は部屋の掃除をしていた。寝室のベッド回りを掃除していた時に、やたらとゴミが落ちている。私はそれを不思議に思いつつもゴミ袋に詰めていたその時だった。
ふと人の気配を感じた私がドアの方向を見ると、そこに義母が立っていた。おそらく私の掃除ぶりを監視していたのだ。案の定、義母は嫌味っぽく言い出した。
「あなたの掃除は部屋を余計に汚くしているのよ。それにベッドの下は見ないのね。」
確かにベッドの下は日常の掃除では気にしない。そこでベッドの下を見ると、明らかに今まで家になかったものが散らかっていた。
私はその中から子供用のお菓子の袋を手に取り、義母に見せ、「家にこのようなゴミはなかったはずなのですが、このゴミは何なのですか」と尋ねた。
すると義母は「まるで自分がそのゴミを外から持ってきてベッドの下に捨てたと言っているみたいじゃないか」と私に怒鳴る。内心ではそれしかありえないと思っていたが、さすがに証拠がないので口に出して言えなかった。なので「そういう意味では言っていない。ただ見たことのないゴミがあると言っただけです」と反論する。
すると「私はいちいち反抗的だ」の「素直に『綺麗に掃除ができていなくてすみませんでした』と謝ることはできないのか」と言い出し、そしてついにこう言った。
「私が雪夫ちゃんなら、あなたみたいな嫁はすぐに追い出すのに。雪夫ちゃんの役に立たない嫁は出ていきなさいよ。」
私は待ちに待った言葉を聞くことができて、この瞬間とても嬉しかった。なので私からも宣言した。
「わかりました。お母さんの言うことをお聞きします。明日にでも出ていきますね。」
義母はその言葉を聞いて少し目を見開いていた。私はさらに言う。「雪夫にとって私はダメな嫁のようなので、離婚させていただきます。」
義母は嬉しそうな顔をして「雪夫が寂しがるだろうから残念だ」と言った。それに対して私は「精々お世話してください」と答えて、家を出るための準備をし始める。
その夜、雪夫が仕事から帰るとすぐに義母は雪夫を捕まえて風呂場で話をしていた。そして風呂場から出てきた雪夫は「離婚したいと義母から聞いた。自分は構わないが、本当にそれでいいのか」と確認をしてきた。
なので「私のことを愛していない雪夫とはもう暮らしていくことができない」と伝える。すると彼はこんなことを言い出した。「そうか。分かった。離婚の手続きは全部俺がやっておくな。」
なぜか雪夫は離婚の手続きを早く終えたいようだった。ただ今更その理由を追求する意味はないだろうと思ったので、私は雪夫に「財産分与は求めない」と事前に考えていた内容を伝える。すると「それはこっちのセリフだ」と吐き捨てるように言った。
そんな翌日には荷物をまとめ、私は家から出て行った。
家を出てから気づいたのだが、義母と雪夫は高級タワーマンションから同居中の私を追い出そうとしていたようだ。うまくいって2人とも満足だろう。
追い出された私は高校以来の親友の家を訪れた。その友人は私の荷物をちらりと見てから「もしかして家から出てきたのか」と尋ねてきた。その荷物を見ればすぐに分かる。職場と実家はかなり離れているため、独身である友人の家にしばらく居候させてもらうように頼むと、「しばらくでなくてずっとでもいい」とありがたい言葉をもらった。やはり持つべきは親友だと実感する。私が困った時に助けてくれた親友が、もし困った時には私も助けると心に誓った。
翌日、私は元の家に行くことになった。義母から離婚届に私の署名が必要という連絡があったからだ。私は行きたくなかったが、離婚届の署名なら仕方ないといやいや向かった。
マンションに着くと玄関で2人が出迎えてくれる。義母と雪夫は私を追い出すことができたのがよほど嬉しいのか、浮かれているように感じた。
「久しぶりね。お元気そうで何より」と義母は歯が浮くようなセリフを口にする。雪夫も笑顔で「元気にしてたか。体調を崩したりはしていないか」と私に今まで言ったことがないようなセリフを言う。私は義母と雪夫のそんな言葉を聞いて寒くなった。
早く帰りたいと思い、署名済みの離婚届を差し出したので「あとは雪夫の方で署名して提出して欲しい」と言って私は帰宅しようとする。すると義母が「そんなに慌てて帰らないで、ゆっくりしていったら」と呼び止めた。雪夫も「飯でも食べていったらいい」とそれに賛同している。
義母は「実はもう食事の用意ができていて、私の大好物である唐揚げができている」と言った。悔しいが、義母の唐揚げは今まで食べた中で最も美味しい。こんな雪夫や義母の気配りがあれば私たちは離婚することはなかったと思いながら、言われると食べたくなってしまったので、雪夫の家で食事を取ることにした。
義母と雪夫は食事の後もなかなか私を帰らせようとしなかった。私はだんだんと嫌な予感がしてくる。何か魂胆があるような気がし、そしてその予感は的中してしまった。義母が言ったのだ。
「ところで秋野さん、実は雪夫ちゃんの会社が倒産してしまって収入がなくなってしまったの。それでね、財産分与のことなのだけど…」
私は義母が「財産分与」と言った瞬間、今日の異様な優しさの理由が分かった。
「財産分与は双方が破棄すると約束したはずです」と言うと、「そんなこと言ってない」と雪夫は言い出し、義母は「そんな会話を聞いていない」という。私が「財産分与を請求しないと言ったら、雪夫は『こっちのセリフだ』と間違いなく言った」と主張した。すると「そんなの知らない。証拠でもあるのか」と雪夫は知らばっくれる。
私はこの親子はやはりダメだと思った。今になって財産が欲しくなり、以前の約束を反故にしてきたのだ。
私は仕方なく鞄から2枚の書類を取り出した。それは私と雪夫が別居する直前の給与明細だ。念のために家を出る時に持って出た。
「是非じっくり内容を見てください」と私と雪夫の給与明細を義母に見せた。その2枚の給与明細に記入されている私の給与は雪夫の約3倍の金額だ。私が勤めている会社はとても忙しいが、その分給与はとてもいい。大学の友人の多くが羨ましがっていたほどだ。
「給料の自慢をしたくてこんなものを見せたのか」と雪夫は言い、「本当に性根が腐った女だから離婚して正解だった」と同調する義母。
そんな2人を突っぱねて、私はさらに家計簿を見せつけながら言った。「その給与から見て分かるように、今までの生活費はほぼ全て私の給料で賄っていました。」
「何が言いたいんだ」という雪夫に、雪夫は自分の給料全てを競馬や麻雀に使っていたことを指摘すると、「自分の金を自分が使って何が悪いんだ」と言い出した。義母は「私の言っていることは本当なのか」と雪夫に尋ねている。
雪夫は虫を潰したような表情を浮かべるのみで何も言わない。そんな雪夫に言った。「私が言いたいのは、雪夫は今まで全く夫としての経済的な協力をしていなかったということです。」
「お前の給料で今まではやっていけてたんだから、それでいいじゃないか。」
「良くない。私は以前から少しは給料を生活費として家に入れてと言ったよね。」
雪夫は「知らない」とそ知らぬ顔で言った。
呆気に取られた私は雪夫に追い打ちをかけることにした。「それともう1つ。これは息子が大好きなお母さんもご存知ないと思います。雪夫はサラ金から結構借金をしてるんですよ。」
私がそう言うと雪夫はうつむいてそっぽを向いてしまった。義母は顔を真っ赤にしながら「本当に借金があるか答えなさい」と雪夫に詰め寄った。
雪夫は横を向いたまま「あるけど、競馬で当てたらすぐに全額返すから問題ない」という。そんな雪夫に義母は声を震わせながら「借金はいくらあるのか」と聞くと、「このタワマンを売ったらなくなる程度」と返した。
それを聞いて義母は泣き出してしまう。そんな義母に「愛する雪夫のためにこのマンションを売却したらどうか」と優しく諭すと、義母はうずくまって泣いているだけだった。
そんな2人に、私は「夫婦としての生活に協力をしてくれなかった人に対して財産分与を行うつもりはありません」と言うと、雪夫は「自分は要求する。そうしたら断れないだろう」と言った。それに対して私はこう答える。「確かにそうですね。ただ、要求するなら私は慰謝料を要求します。慰謝料に文句があるなら裁判でもしましょう。私は負けるつもりはないから。」
すると義母が私に「どうにか雪夫を助けてやってください」と言いながら土下座して頭を床に擦りつけてきた。それを見て「見苦しいだけだからそんなことしないで顔をあげて欲しい」と言った。
それに対して雪夫が「年寄りをいじめて楽しいのか」と言い出したので、「本当のことを話しているだけでいじめたりはしていない」という。すると「さっさと帰れ」と雪夫は怒鳴ってきた。
それを聞いた私は薄ら笑いを浮かべながら雪夫にこう言う。「言われなくてももう2度とここに来る気なんかないから。それに借金の返済でこのマンションを売るはめになって、そもそも来れないかもね。」
それを聞いた雪夫は興奮して「うるさいから早く帰れ」と言った。そして私は颯爽と帰宅した。
それから3ヶ月が過ぎた頃、マンションは売りに出されていた。少しチェックしていたのだが、すぐに買い手がついたようだ。義母と雪夫は近くのアパートに引っ越し、義母はホテルの清掃員、雪夫は運送会社に就職して毎日力仕事をしていると風の噂で聞いた。
私の方は仕事は今まで通り頑張っていて充実しているのだが、もう1つ生きがいが見つかった。仕事帰りにカフェで素敵な男性と知り合ったのだ。その人はとても優しく、いつも私と穏やかに会話してくれる人だ。でも今度は簡単には結婚しないつもりだ。2度も結婚に失敗したくないと思っているから、今度はしっかりと相手のことを見極めてから結婚したいとは言うものの、最近は毎日のように会ってしまっている。毎日彼と会うことで仕事を頑張るためのエネルギーが充電されている。
今日は2人の仕事が休みで、2人で「こんな風に将来過ごしたい」なんて話で1日中盛り上がっていた。私は彼と2人で海が見えるタワーマンションに住んで、リビングのソファーでコーヒーを飲みながら海を見て過ごしたいと思っている。彼は「毎日朝日を見ながら目覚めたい」と言っていた。そして2人の願いが叶う家に住むことができたら、いつかは私と彼の赤ちゃんが欲しいなと、随分先のことをもう思ってしまっている。



