ファーストクラスのキャビンに、低く澄んだ声が響いた。その格好でファーストクラス? 冗談でしょ。
視線の先、最前列の窓側席に、ラフなジャケットにスニーカー姿の男が静かに座っている。窓の外を見つめたまま、男は動かない。
隣の席に座る、隙のないスーツ姿の男が、軽蔑を込めた口調で続けた。ファーストの空気が一気に下がったな。あんなのと同じ空間にいるって、この馬鹿馬鹿しさに乾杯だ。
桐生誠は振り返らない。ただ湯呑みに口をつけ、雲海の向こうへ視線を流すだけだった。
その時、通路を駆けてくる足音がした。医療キットを抱えた客室乗務員が最前列の男の姿を捉えた瞬間、ぴたりと足を止めた。
桐生機長、お疲れ様です。
その一言が、ファーストクラスの静寂をはっきりと切り裂いた。
さっきまで医学部中退の元彼だと笑っていた男に、CAが深々と頭を下げている。十二年前、現実を見ない人と切り捨てたその男が、今、自分たちの命を空へ運んでいることを、彼女はまだ知らない。
桐生誠、三十二歳。人より少し遠回りをしながら、今の場所にたどり着いた男である。
きっかけは、医学部に在籍して二年目の春だった。実家は地方の総合病院。両親は当然、後継ぎとして誠を医学部へ送り出した。成績も悪くなかった。このまま四年学べば、医師の道が待っていた。それでも誠は退学届を出した。母は泣き崩れ、父は三か月、口を聞かなかった。
お母さん、父さん、ごめん。でも、俺の場所はここじゃないんだ。
一度だけ伝えたその言葉を、両親はすぐには受け入れなかった。そして三年付き合った恋人、勇気あやも言った。
医学部まで行って辞めるなんて、信じられないわ。
俺にはどうしても諦めきれない夢があるんだ。
夢? 医者を諦めてまで見る夢って何? 現実を見ない人ね。将来性のないあんたとは、これ以上付き合えないわ。
そうか。じゃあ、お前の現実の中に、俺はいない。
別れ際に交わした言葉を、誠は今もはっきり覚えている。ただ自分の選んだ道を進むだけだった。
現実を見ない人か。十二年前の自分は、確かに何も持っていなかった。肩書きも収入も、家族の理解さえも。それでも、空を見上げる時の胸の高鳴りだけは本物だった。
誠は新しい場所で一から学び直した。座学と実地経験、寝る間も惜しんで体に技術を叩き込む日々。何度も心が折れかけた。それでもやめなかった。やめなかった理由を、誠自身うまく言葉にはできない。ただ、空を見上げる時の胸の高鳴りだけが、十二年経った今も変わらず残っていた。
それから十年。誠は自分で選んだ場所に立つ男になっていた。
その日は久しぶりの休暇だった。タクシーの後部座席で、都会の景色がゆっくり流れていく。連勤明けの背中に、心地よい疲労が張り付いていた。
今日くらいは、何も考えずに過ごすか。
そう呟きながら窓に映る自分へ目をやる。ラフなジャケットにニット、足元はスニーカー。制服を脱げば、どこにでもいる若い男にしか見えない格好だった。行き先は那覇。連勤明けの体へのささやかなご褒美に、ファーストクラスを指定していた。
久しぶりだな、客として乗るのは。
タクシーが止まり、車を降りた瞬間、羽田の独特の空気が肌を撫でた。出発ロビーは相変わらず人で溢れている。アナウンスの声、スーツケースの車輪が床を滑る音、子供を抱えた家族連れの笑い声。空港特有のざわめきの中、誠は流れに沿って歩いていく。途中、ベビーカーを押す若い母親に自然と道を譲った。
お先にどうぞ。
あら、ご親切に。
軽く会釈を返し、また人の流れに戻る。仕事へ向かう人、旅行へ向かう家族、誰かを待つ若い女性。それぞれの時間がロビーの中で静かに交差していた。
いい休暇になりそうだ。
そう呟いた瞬間だった。ロビーの一角から、女性の苛立った声が響いた。
ふざけてるんですか? なんでこんな日に遅延するわけ?
まさか、この声。十二年ぶりに耳にする声だった。それでも誠にはすぐに分かった。勇気あや。三年付き合い、自分を現実を見ない人と切り捨てた元恋人の声だった。
カウンター前でスーツケースを横に置いたまま腕組みしている女性が、若いカウンタースタッフを睨みつけている。十二年前と何も変わらない姿だった。その隣には、仕立てのいいジャケットを着た男が立っていた。薄ら笑いを浮かべている。
立たされているのは、紺の制服に身を包んだまだ若いCA。名札には春日みそとあった。みそは何度も頭を下げながら、必死に対応を続けている。
申し訳ございません。整備確認のため、出発が三十分ほど遅れる見込みでございます。
三十分? 信じられない。大事な予定があるんですけど。
ご迷惑をおかけして、大変申し訳ございません。
三十分って、こっちの時間をどう責任取るつもりなの? 男の声には、自分は時間に追われた重要人物だという響きが滲んでいた。
重ね重ね、申し訳ございません。
謝るだけなら誰でもできるでしょう。原因は?
整備士による最終点検で、お客様の安全に関わる確認作業でございます。
安全安全って、そればっかり。綺麗事はいいから、具体的に説明してよ。
整備上の点検に時間がかかっているとご案内するしかなく。
ほら、結局答えになってないだろう。新人かよ。こんなのに当たらせるなって。
申し訳ございません。
周囲の客たちは、聞こえないふりをするようにスマートフォンへ視線を落としていた。誰一人、間に入ろうとしない。誠はロビーの中央でその光景を静かに見ていた。一人で立たされている若いCAの肩が、制服越しにもわずかに震えている。
助けに出ようと一歩踏み出しかけた。しかし、寸前で足を止めた。
俺が出れば、彼女の仕事を奪う。
制服を着てカウンターに立った瞬間から、彼女はプロだ。客として乗る今日、自分が出ていく場所ではない。誠は一歩下がり、柱の影に身を寄せた。
整備のための三十分。その作業を切り捨てる声を聞くたび、誠の眉がわずかに寄った。整備士たちがどれだけ細かく確認しているのか。その三十分があるからこそ、明日も誰かが安全に空を飛べる。知らないままぶつけられる苛立ちは、いつだって立場の弱い人間へ向かうものだった。
やがて、先輩らしき中年の女性スタッフが小走りで駆け寄ってきた。深々と頭を下げながら対応を引き継ぐ姿に、みそはようやく一歩後ろへ下がる。
新人にやらせるなら、最初からこういう人を出しなさいよ。教育コストがかかってないのが丸見えだな。
二人はようやくカウンターを離れ、別の場所へ歩いていった。先輩スタッフに肩を支えられたみそが、深く息を吐く。誠はその姿を柱の影から見送った。
あや、変わってないな。昔から苛立ちをすぐ人にぶつけるのは悪い癖だ。改めてそう思う。怒りは湧かなかった。二十年弱の若いCAを、あの距離で怒鳴り続けられる神経の方が、誠にはずっと遠いものに感じられた。
誠はゆっくりと保安検査場へ向かって歩き出す。胸の奥に、わずかな違和感だけが残っていた。
ファーストクラスラウンジに入ると、誠は窓際のソファーに腰を下ろした。一面ガラス張りの向こうでは、整備士たちが青い作業着のまま機体の周りを動き回っている。手元のカップからゆっくりと湯気が立った。連勤明けの肩から、少しずつ力が抜けていく。
その時、聞き覚えのある声がラウンジに響いた。
嘘でしょ?
あやがラウンジの中央付近に足を止めていた。連れの男も、彼女の視線を追って誠の方へ顔を向ける。
ねえ、ちょっと、あの席にいる人。
仕立てのいいスーツ姿の男、藤堂はあやの現在の恋人だった。
どれ?
ほら、前に話したでしょ。私の元彼。医学部を二年で中退したあの人。
ああ、お前が言ってた「現実を見ない人」って、あいつか。
だって信じられないでしょ。普通、医学部まで行ってやめるなんて。
で、あれが現物か。へえ、思ったより普通だな。
藤堂の横顔には、ラウンジの上品な照明の下で薄ら笑いが浮かんでいた。
こんなところで再会するなんてな。
誠はゆっくり二人へ視線を向け、軽く会釈だけを返した。どうも。
距離は十メートルほど。あやは二、三歩こちらへ近づき、誠の足元から頭まで舐めるように視線を走らせた。シンプルなジャケットにニット、少し崩したスニーカー。その格好は、ラウンジの照明の下では場違いに映った。
ちょっと待って。その格好でファーストクラス? 冗談でしょ? 医学部中退して、こんなとこに座ってるって話、持ってんじゃないのか。
持ってないわよ。本当に医学部二年までいたの?
ふん。じゃあ、やめた後、落ちぶれたんだろうな。
ねえ、招待権じゃなくて、ちゃんと自分で払えてるんでしょうね。
ああ、自分で買った席だ。
本当に、現実でも当たったんじゃない? 受ける。
こういうやつに限ってさ、空港の写真をSNSにあげて「今日は出張」とか書くんだよな。
はあ、分かる、分かる。痛々しいやつね。
誠はカップを置き、再び窓の外へ視線を移した。煽られても揺れない。久しぶりに再会したあやは、昔と何一つ変わっていなかった。
で、今は何やってんの? 派遣とか、契約とか、そんな感じ?
想像にお任せするよ。
答えられないの? まあ、その格好で大体想像つくけど。別れて正解だったわ。あんなに堂々と中退するって聞いた時点で、見切るしかなかったもの。
あや、写真撮っとくか。元彼の落ちぶれ話としては、最高だろう。
やめてあげないよ。はあ、一応取っとく。
お好きにどうぞ。
何を強がっちゃって。
誠は相手にするだけ無駄だと悟り、ただ窓の外を流れる雲だけを見つめた。あやは最後まで、その姿を「強がっている元彼」としか見ていなかった。
搭乗開始のアナウンスがラウンジに流れた。誠は残っていたコーヒーを飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。搭乗ゲートへの通路で、ジャケットの内ポケットから搭乗券を取り出す。座席は最前列の窓側。視線を上げると、ゲートに立つCAの姿が目に入った。先ほどロビーで頭を下げ続けていた、あの若いCAだった。
みそは誠の搭乗券に視線を落とし、機械的に確認し始めた。次の瞬間、その手が止まる。思いがけない名前を目にした驚きで、わずかに目を見開いた。しかしみそはすぐに表情を整え、堂々と頭を下げた。
総天航空をご利用いただき、ありがとうございます。
今日はプライベートだ。普通の客として扱ってくれ。
かしこまりました。
さっきロビーで見ていた。あの対応、悪くなかった。
え?
みそは驚いたように目を見開き、それから少しだけ頬を緩めた。
君は悪くない。整備のための遅れだったんだ。安全が一番だからな。
あ、はい。ありがとうございます。
誠は頷き、そのままゲートを抜けた。背中越しに聞こえた「行ってらっしゃいませ」という声は、さっきよりも少しだけ力が戻っているようだった。
機内に乗り込み、誠は最前列の窓側へと身を沈めた。シートの感覚、収納の開閉、緊急装備の位置。客として乗っていても、自然と目が細部を追ってしまう。染みついた仕事の癖だった。
その時、通路の入り口から聞き覚えのある声が流れ込んできた。
ねえ、ファーストの座席って二列目だっけ?
ああ、俺たちは二列目の通路側だ。
通路を進みながら前方へ視線を向けた男、藤堂がぴたりと足を止めた。最前列に座る男の後ろ姿。シンプルなジャケットの肩、整った後頭部。さっきラウンジで見た男そのままだった。
あら、どうした?
前の席。さっきの元彼。
はあ? 一番前の席って、ファーストの最上席だろう。
あいつ、本当にあそこに座ってんのかよ。
ねえ、私たちの目の前じゃない。最悪。
後方の乗客に軽く咳払いをされ、二人はようやく慌てて自席へ移動した。誠は気にする風もなく、前を向いたまま席のモニターへ静かに視線を落としていた。
出発予定時刻、上空ルート。客向けの簡易表示に並ぶ数字を、誠の目は自然に拾っていく。普段から見慣れた情報だった。
すぐ後ろで、あやが藤堂の方へ顔を寄せ、声を潜めた。
ねえ、見て。あのジャケット、多分ブランド物じゃないわよ。
ああ、確かに。よく見れば、安物だな。
ファーストってもうちょっと見た目を整えてくる場所じゃない? 周りの人に失礼か。あんなのに最上席を取られる航空会社もどうかしてるよ。
せっかく金払ってんのに。
わかる。一気にこの席のグレードが下がった気分。
シャンパン来たら乾杯しような。あんなのと同じ空間にいるって。
その風に、やめてよ。
でも本当それ。
押し殺した笑いが、押し殺せていない音量で前方へ漏れていた。誠はゆっくりと窓の外へ視線を移した。せっかくの休暇だが、こんなこともある。背後でどんな言葉が飛んでいようと、到着までの辛抱だと割り切った。
やがてファーストクラスでウェルカムドリンクの提供が始まった。
お茶をお願いします。
かしこまりました。
湯呑みを受け取ると同時に、機内に出発前のチャイムが響いた。離陸後、機体は巡航高度に達した。ベルトサインが消え、機内には温かな香りが広がり始める。雲の上から見下ろす景色は、地上から見上げる空とはまるで違って見えた。
誠は足元のバッグから一冊の小さな手帳を取り出した。角の擦り切れた手帳を開くと、細かな文字でびっしりとメモが並んでいる。緊急時の対応手順、症状ごとの初動チェック、地上との連絡フロー。職業柄、誠はこの手帳を常に持ち歩いていた。医師の資格はない。だが、中退するまでの二年間で体に叩き込んだ医学知識は、今も誠の内側に残っている。空に上がる以上、何かあった時、最初に動ける人間でいたい。それが誠の責任の取り方だった。
みそは銀のトレイを手に通路を行き来していた。最前列の誠には控えめに茶を継ぎ足し、二列目の二人には丁寧に食事の希望を尋ねている。
シーフードで。あと、シャンパンお願い。
俺はビーフ。ワインは赤で。
かしこまりました。
頷いて下がるみその背中に、あやが声を漏らした。
あの子、さっきロビーにいた使えない子よね。
ああ、あの新人か。
藤堂はワイングラスを指先で回しながら、何度か前の席へと視線を向けていた。さっきまで見下していた男が、自分たちと同じファーストクラスに当然のように座っている。そのことが、思った以上に引っかかっているらしい。
そこへみそが再び通路を進んできた。誠の前で立ち止まり、湯呑みに新しい茶を注ぐ。手元は、機内サービスを始めた頃よりもずっと落ち着いて見える。
気にせず、自分の仕事に集中してくれ。
ありがとうございます。那覇まで責任を持って務めます。
頼んだ。
短い会話を交わし、みそは軽く頭を下げて次の乗客の元へ向かった。その様子を見ていたあやが、わずかに眉を潜めたのを、誰も気づいていなかった。
食事サービスが始まり、ファーストクラスのキャビンに料理の香りが漂い始めた。みそがトレイを両手で支え、前の通路へと進んでいく。
お待たせいたしました。お料理のお皿でございます。
皿をテーブルへ下ろしかけたその瞬間だった。藤堂の右足が通路側へとわずかに突き出される。みその足先がそこへ引っかかり、トレイの上でスープが大きく傾いた。シーフードビスクが藤堂のシャツの襟元へ飛び散り、通路にも広がっていく。
うわ、何やってんだよ。
必要以上に大きな声がキャビン中に響き渡った。
ちょっと最悪なんだけど。これいくらするシャツか分かってる?
申し訳ございません。お怪我はございませんでしょうか?
怪我じゃないだろう、シャツだろう。フランスで買った一点物なんだぞ。本気でこの仕事を続けるつもりなら、もっと周りを見て動いたらどうだ。お客の足くらい確認しなさいよ。
重ね重ね、申し訳ございません。
みそは慌てて床を拭き始める。握ったナプキンに、指先がぐっと食い込んでいた。誠は最前列からその様子をじっと見ていた。
偶然じゃない。あの角度で足は出ない。
後方の客たちも、息を詰めたように黙り込んでいた。機内という閉ざされた空間では、誰かを止める声を上げるだけでも勇気がいる。
しかし、これまで沈黙していた誠は、ゆっくりと席を立った。
君たち。
そう言って誠が通路へ一歩踏み出した瞬間、みそが顔を上げた。
大丈夫です。大丈夫ですから。
消えそうな声だった。それでもその目は、必死に自分の仕事を守ろうとしていた。新人だからこそ、ここで誰かに庇われたくない。自分の足で立たなければ、この先やっていけない。
誠は何も言わずに頷いた。そして、再び席へと戻る。客として今できることは、彼女の覚悟を壊さないことだった。
席へ戻る誠を見て、藤堂が鼻で笑う。
何? 元彼の分際で?
あんたには関係ない話だろう。
誠はカップに口をつけたまま、視線も上げなかった。
ふうん。あれで仕事続けられると思ってんのかね。
いいんだよ。こういうのは下から鍛えられるから。
二人の会話はもう誠の耳には入っていなかった。誠の目はただ、みその背中だけを追っている。床を拭き終え、深く頭を下げ、別の乗客の元へと静かに歩いていくみそ。震えていた指先は、もう落ち着きを取り戻していた。
それでいい。
食事サービスが一段落し、機内には穏やかな時間が流れ始めた。藤堂はワイングラスを傾けながら何度も腕時計を確認している。あやはスマートフォンで化粧を整え直していた。誠は窓の外へと視線を戻す。雲海の城が機体の翼を撫でるように流れていく。那覇まであと一時間ほど。連勤明けの体に、ようやく休息が染み渡り始めていた。
その時だった。後方のギャレーから、客室乗務員の先輩らしき女性が足早に通路を歩いてくる。その視線はまっすぐ、コックピットの方向へ向けられていた。誠の眉がわずかに動いた。
何かあったな。
CAの歩く速さ、視線の角度、肩のわずかな緊張。長年同じ職場で働いてきた人間にしか分からない空気の変化だった。
数分後、コックピットの扉が一度開き、また閉まる音がした。通路の奥ではCA同士が小声で何かを話し合っている気配がある。しかし客室には何のアナウンスも流れない。
ねえ、なんかおかしくない?
うん。ああ、CAが落ち着かないな。
気のせいよね。なんでもないわよね。
そう言いつつ、あやの指先はシャンパングラスの足を神経質に撫でていた。
しばらくして、機内に短いチャイムが鳴った。その音色は普段の食事案内のチャイムとは明らかに違っていた。
お客様にご案内がございます。誠に恐縮ではございますが、当機の操縦士のうち一名が、機内で体調を崩しております。
ファーストクラスの空気が一瞬で凍り付いた。
操縦士って?
あやがシャンパングラスをテーブルに戻す。藤堂もまた、腕時計から手を離した。
機内にお医者様、または医療の心得のあるお客様がいらっしゃいましたら、お近くの客室乗務員までお声がけいただけますでしょうか。重ねてお願い申し上げます。
放送が終わると、ファーストクラスは深い静寂に包まれた。後方の席から、年配の男性の押し殺した声が漏れる。
おい、パイロットが倒れたって、誰か聞いてないか?
やだ。ちょっとどうなるの? この飛行機。
誰もが顔を見合わせる。しかし誰一人として立ち上がらない。誠はシートベルトに手をかけた。しかし外そうとしたその瞬間、ファーストクラスの通路を誰かが小走りで駆けてくる足音がした。
医療キットを抱えたみそが、ファーストクラスの乗客を一人ずつ確認するように視線を走らせている。そして最前列に座る誠の姿を捉えた瞬間、みその足がぴたりと止まった。
桐生机長、お疲れ様です。
反射的に出たその一言。ファーストクラスの静寂をはっきりと切り裂いた。機長。ラフなジャケットの男に向けられたその一言。あやのシャンパングラスの中の液体が大きく揺れ、藤堂の口が半開きのまま動きを止めた。
え、機長って?
ファーストクラスの全員が誠を見ていた。さっきまで笑われていた男。その男の姿に、今、機長という言葉が重なった。
みそははっとしたように深く頭を下げた。
申し訳ありません。プライベート中にお声がけしてしまい。
その声には驚きと緊張が同時に滲んでいた。そして誠はゆっくりと立ち上がった。ラフなジャケットの裾を整え、座席のシートベルトを完全に外す。その目は、もう休暇中の客の目ではなかった。
春日さん、状況を。
機長がコックピットで意識を失われました。機長からの要請で、医療経験者を探しております。
意識はあるか?
先ほど呼びかけには反応されたとのことですが、言葉が回らず、左半身に力が入らないご様子で。
誠の表情がわずかに引き締まった。言葉の障害、左半身の麻痺。医学部時代に叩き込まれた症状の名前が頭をよぎる。
春日さん、すぐピットへ案内してくれ。地上の管制と医療機関にも連絡を。
はい、機長。
誠は最前列のバッグから手帳を取り出し、ジャケットのポケットに収めた。その動きに迷いはなかった。通路を進む誠の背中を、あやは呆然と見送っている。
ねえ、今、機長って言わなかった?
俺もそう聞こえた。
嘘でしょ? だって、医学部中退して、それで……
その後の言葉は続かなかった。ファーストクラスの他の乗客たちも誠の背中を見つめている。不安の中に、確かに一つの希望が混じり始めていた。医療経験のある機長。その希望が、この機体の中にいる。
誠はピットの扉の前で立ち止まり、内線で伝えた。ロックが解除され、扉が開く。
失礼します。総天航空機長の桐生です。状況を引き継がせてください。
桐生机長、助かります。お願いします。
扉が静かに閉まった。ファーストクラスの二列目では、あやはシャンパングラスを握ったまま動けなくなっていた。十二年前、自分が「現実を見ない人」と切り捨てた男。その男が今、この飛行機の操縦席へと入っていった。自分の命をその男に預けることになる。あやはその事実を、ようやく理解し始めていた。
コックピットの中は、独特の緊張感に包まれていた。右側の副操縦士席で機体を操る副操縦士の隣、機長席には白髪混じりの中年の男性がぐったりとシートに沈み込んでいた。脂汗を浮かべ、左腕は力なくシートの肘掛けに垂れている。副操縦士がシートベルトで機長を固定し、なんとか体を保たせている状態だった。
桐生机長、本当にすみません。鈴木機長が十五分ほど前から急に。
鈴木さん、聞こえますか? 総天航空の桐生です。手を握れますか?
機長は右手をゆっくりと握り返した。
左手は?
機長の左手は、わずかに指先が動くだけだった。
笑ってみてください。
機長が口角を上げようとする。しかし左側の口元は動かなかった。誠の表情がわずかに引き締まる。
顔の左半分の麻痺、左半身の脱力、言葉の障害。すべてが一つの結論を導き出していた。脳卒中。典型的な初期症状。一刻を争う。
副操縦士、現在地と那覇までの所要時間は?
現在、奄美上空。那覇まで約二十五分です。
了解。ここから操縦は私が引き継ぎます。鈴木機長を客室前方のファーストクラス空席へ移し、安静を維持。頭部はわずかに高く保ってください。
はい。
春日さん。
はい、機長。
鈴木機長の搬送補助と、機内に酸素の用意を。地上の管制官には、脳血管疾患の疑いと伝えて、那覇空港の救急隊に直接連絡を取らせてください。
承知しました。
誠は副操縦士と力を合わせ、機長を慎重にシートから移した。その手付きに無駄はなかった。医学部時代の知識と、機長として積み重ねてきた緊急対応訓練が自然につながっている。
すまん、桐生。
無理に話さないでください。鈴木さん。那覇までの二十五分。私が必ず連れて帰ります。
機長の目にわずかに涙が滲んだ。その肩を誠は一度だけ軽く叩き、機長席へと向き直った。
誠は機長席に座り、ヘッドセットを装着した。計器板の明かりがその横顔を照らしている。その目はもう、ラウンジで見せていた静かな目ではなかった。
副操縦士、操縦を引き継ぎます。
了解。
管制塔、こちら総天航空七百七便、機長の桐生。鈴木機長の体調不良により、機長交代しました。脳血管疾患の疑い。那覇空港着陸後、即座に救急隊を要請します。
了解、七百七便。那覇空港の救急隊をゲート前で待機させます。予定通り那覇空港へ向かいます。着陸時刻に変更なし。
機長、客室へのアナウンスは私が行います。
誠は機内アナウンスのスイッチを入れた。短いチャイムが鳴り、客室全体に誠の声が流れていく。
ご搭乗のお客様、機長の桐生でございます。
ファーストクラスの二列目で、あやがびくっと身体を震わせた。その声を聞き間違えるはずがない。十二年前に「お前の現実の中に俺はいない」と告げた男の声。それが今、この機体の操縦席から流れている。
鈴木機長の体調不良により、私が操縦を引き継いでおります。当機は予定通り那覇空港へ向けて運行しております。着陸予定時刻に変更はございません。皆様には大変ご心配をおかけいたしますが、どうぞ最後までご安心してお過ごしください。総天航空機長の桐生がご案内いたしました。
放送が終わると、ファーストクラスは深い静寂に包まれた。やがて誰かが小さく拍手を始めた。それが少しずつ広がり、機内のあちこちから拍手が起こり始める。
あやだけは動けなかった。シャンパングラスを握る指先が白くなっていた。藤堂もまた、ワインのグラスから手を離せずにいる。
こいつ、本当に機長だったのか? 医学部中退って言ってたよな。それでなんで機長なんかに。
あやは何も言えなかった。その声は確かに、彼女が知っている誠の声だった。私が知ってる誠は、医学部をやめた。現実を見ない人だった。
お前、さっき写真撮ろうとしてたよな。
やめて。
俺たち、あいつのこと……
やめてって言ってるでしょ。
その声の大きさに、自分でも驚いたようにあやは両手で口を押さえた。涙がゆっくりと頬を伝った。十二年前、自分が捨てた男。その男が今、自分の命を運んでいる。その事実があやの胸を締め付けていた。
コックピットの中、誠は雲海の向こうに浮かび始めた那覇の海岸線を静かに見つめていた。機長の状態を、副操縦士が後方から定期的に報告してくる。
鈴木機長、意識レベル維持。呼吸安定です。
了解。このまま着陸まで安静を維持してください。
誠は雲の切れ間から見える滑走路へと視線を集中させた。十年間、何百回と繰り返してきた着陸操作。しかし今日のこの一便だけは、特別な意味を持っていた。
機体は徐々に高度を下げ、最終アプローチへと入る。
ギアダウン。ギアダウン。スリー・グリーン。フラップフル。フラップフル。
那覇空港の滑走路がフロントウィンドウいっぱいに広がる。誠の手が最後の操作を加えていく。タイヤが滑走路を捉えた。わずかな振動。逆噴射の音が機内に響き、機体は安定して減速していった。
着陸成功。機内のあちこちから、再び拍手が起こった。
機長、完璧な着陸でした。お疲れ様です。
鈴木機長を迎えに来た救急隊に引き継ごう。
機体がゲートに到着するとすぐに、救急隊が乗り込んできた。鈴木機長はストレッチャーに乗せられ、慎重に運び出されていく。誠はその様子を、コックピットの扉の前で見送った。
桐生さん、ありがとう。
さん、また会いましょう。
機長はわずかに頷いた。
降機が始まった。誠はコックピットから出ると、ファーストクラスの通路をゆっくりと歩いた。乗客たちが次々に誠に頭を下げていく。
ありがとうございました。無事について、本当に良かったです。
機長、本当にお疲れ様でした。
誠は一人一人に頷きを返しながら、歩を進めた。二列目の席で、あやが立ち上がる。
誠。
声が震えていた。
待って。さっきのは、その……知らなかったから、つい。ごめん。
誠は怒るでもなく、ただ静かにあやを見つめた。
あや。十二年前、お前が言ったんだ。「現実を見ない人」と。俺の現実は、ここにある。
その一言があやの胸を貫いた。あやは口元を押さえたまま、何も言えなくなった。藤堂が慌てて立ち上がる。
あの、桐生机長。さっきは、失礼しました。
言葉につまる藤堂の額には、わずかに汗が浮かんでいた。自信たっぷりだった男は、もう腕時計を弄る余裕もなくなっていた。
ご搭乗、ありがとうございました。
それだけを残し、誠は前方へと歩いていく。それ以上、何も言わなかった。あやはその背中を見送ることしかできなかった。涙が頬を伝い続けていた。誠のことが自分で選んだ現実は、十二年前にあやが捨てた未来だった。その当たり前の事実に、あやはようやく気づいたのだった。
ボーディングブリッジを抜けた誠に、みそが小走りで追いついてきた。制服の乱れは整えられていたが、緊張が抜け切っていないのか、頬はまだ少し赤い。
機長、本当にありがとうございました。私、何もできなくて。それどころか、ご迷惑まで。
迷惑じゃない。
みそは顔を上げる。
君が冷静に状況を伝えてくれたから、コックピットに入った瞬間から動けた。あれは助かった。
はい。
次の便でも、今日みたいに立っていればいい。
みその目が潤んだ。
ありがとうございます。
短い会釈を交わし、誠は那覇空港のロビーへと歩き出した。ラウンジで嗤われても怒鳴り返さなかったこと。みそを無理に庇わなかったこと。倒れた操縦士を迷わず助けたこと。どれも特別なことではない。ただ、自分が選んだ仕事を、自分のやり方で全うしただけだった。
東京へ戻って二週間ほど経った頃、誠はあるフライトを終え、空港内のクルーラウンジでコーヒーを口に運んでいた。そこへ、みそが軽い足取りで歩み寄ってきた。
機長、お疲れ様でした。
お疲れ様。少しだけ、お時間よろしいでしょうか?
ああ。
みそは隣の席に静かに腰を下ろした。その表情には、あの日の新人らしい硬さはもうなかった。
鈴木機長、無事に退院されたそうです。リハビリ次第で、復帰も視野に入っていると。
そうか。よかった。
鈴木機長、ずっと「桐生机長に救われた」とおっしゃっているそうです。
俺は自分の仕事をしただけだ。
はい。きっと、そうおっしゃると思いました。
みその口元がほんの少し緩む。
あの、もう一つだけ、お耳に入れておきたいことが。
ああ。
あの便の話、機内とSNSで少し広まっているそうです。匿名は伏せられていますが、ファーストクラスでのやり取りまで、割と細かく書かれているようで。
乗っていた客の誰かが書いたんだろうな。
同じ便に搭乗していたCAがSNSをチェックしていて、教えてくれたんです。あの女性のお客様、機内で大きな取引先を任されていたそうですが、その投稿が取引先の目にも入ってしまって、結局、担当を外れて地方への移動が決まったと聞きました。
そうか。
そして、あの男性のお客様とも、結局お別れになったそうです。互いを攻め合って、「お前のせいだ」「あなたこそ」と、最後まで譲らなかったと。
SNSって、怖いですよね。炎上して、そんなことまで見られて、分かっちゃうなんて。
誠はわずかに目を伏せた。
人を見下す癖というのは、機内だけのお話ではなかったのかもしれません。
だろうな。
短い沈黙が流れた。それからみそは視線を窓の外へと移した。
あの便のこと、私、最近よく考えるんです。
ああ。
あの日、私、本当に何もできませんでした。お客様に怒鳴られて、料理をこぼされて。震えていただけでした。
そんなことはない。
いえ、震えていました。逃げ出したいと何度も思いました。でも、機長がロビーで私を見ていてくださった。それから、機内で「大丈夫です」と申し上げた時、何も言わずに頷いてくださった時。私、初めて思ったんです。「ああ、この人は私を一人前のスタッフとして見ていてくれてるんだ」って。
誠は照れ臭そうに、わずかに目を伏せた。
だから、私、頑張れたんだと思います。
君は、君が思っているよりずっと強い人間だ。俺はそれを知っていた。
ありがとうございます。私、あの日のことを、これからもずっと忘れません。
みそはコーヒーカップを静かに置いた。それから誠はふと、窓の外へと視線を移した。
春日さん、少し昔の話をしていいか?
はい。
俺は医学部を中退した男なんだ。
え?
二年生の春に辞めた。両親には反対された。三年付き合った恋人にも「現実を見ない人」と言われた。それでも、空を飛ぶ仕事がしたかった。誰かに保証されたわけでもない。正解だったかどうか、今でも分からない。でも、やめなかった。
そうだったんですね。
人生に正解はない。誰かが用意してくれた正しい道を歩く方が、ずっと楽だ。でも、自分で選んだ道なら、辛い時に踏ん張れる。あの日、君が踏ん張ったのも同じだと思う。あそこで仕事を放り出していたら、君はきっと自分を許せなかった。震えていても立ち続けた。それは君が自分で選んだことだ。
はい。
みその目から一筋、涙がこぼれた。それを慌てて手の甲で拭う。
俺も忘れないよ。あの日、震えながらも自分の足で立とうとした君の背中を。あれがあったから、俺も迷わずコックピットへ行けた。
機長。
諦めなかった人間にしか見えない景色がある。君はもう、それを知っている人間だ。
はい。
みそは深く頭を下げた。
次の便でも、今日みたいに立っていればいい。
はい。
短い沈黙の後、みそは深く一礼すると、次の便へと向かっていった。その背中は、もうあの日の新人の姿とは違っていた。
誠はコーヒーカップに口をつけ、窓の外を見上げる。夜空に向かって、一機の飛行機がゆっくりと上昇していった。点滅する灯りが空の向こうへと消えていく。
誠はふと思う。人を見るとはどういうことか。人を信じるとはどういうことか。十二年前、あやは誠を現実を見ない人と切り捨てた。誠はあの現実から消えた。しかし誠が選んだ現実の中には、今、確かにみそのような人間が立っている。それで十分だった。
季節が変わり始めた頃、誠は再び制服に袖を通し、コックピットへと入っていった。ブリーフィングルームには客室乗務員たちが整然と並んでいる。その中には、春日みその姿もあった。あの日以降、みそは機内トラブル時の対応を落ち着いてこなせる新人として、周囲から一目置かれるようになっていた。
今日も安全運行で行こう。よろしく頼む。
はい。機長、よろしくお願いいたします。
ブリーフィングを終えると、誠は研修担当の元へ向かった。手にしていたのは、運行乗務員急病時、機内連携プログラムの企画書である。機内で運行乗務員が急病となった際、客室乗務員はどう動くべきか、医療知識を機長や地上スタッフとどう連携すべきか。あの日の経験をもとに、誠自身がまとめた研修案だった。
正式に決まりました。来月から、新人研修へ組み込まれます。
ありがとうございます。
空の上では、一つの判断の遅れが命に関わる。だからこそ、迷わず動ける人間を一人でも多く増やしたかった。誠は振り返り、みそを呼んだ。
春日さん。
はい。
来月の初回研修、補佐をお願いしたい。
私がですか?
君は実際に現場で動いた。新人に伝えられることが、必ずある。
みその表情が引き締まる。
はい。よろしくお願いいたします。
窓の外では、整備士たちが機体の最終点検を続けていた。あの日、あの二人が文句を言っていた三十分。しかし、その三十分があるからこそ、今日も安全に飛べる。誠はその背中を見つめ、静かに頷いた。
行こうか。
コックピットへ入ると、計器板の明かりが順に点灯していく。やがて一機の飛行機が、青空へ向かって滑走路を走り出した。



