里帰り出産から戻ったその日、夫の強しの様子は明らかに変だった。玄関で迎えてくれたときも「おかえり、彩子」と言いながら、その目は落ち着かず、どこか焦っているように見えた。赤ちゃんを抱えていた私は深く考えずに家の中へ入ったが、リビングが驚くほど綺麗に片付いているのを見て、また違和感を覚えた。
片付け嫌いの強しが、こんなにちゃんと掃除をするはずがない。
不安を抱えながら寝室の扉を開けた瞬間、私は息を呑んだ。見知らぬ女性が、私たちのベッドでぐっすり眠っている。一瞬、目を疑った。何度見ても、それは現実だった。心臓がドキドキして、体が硬直した。すぐに強しが慌てて駆け寄ってきた。
「あ、彩子……これは、その……」
強しは口ごもりながら説明しようとするが、言葉が出てこない様子だった。私はその場に立ち尽くし、必死に頭の中で状況を整理しようとした。なぜ知らない女性が私たちの寝室のベッドで寝ているのか。強しの慌てた様子とその女性の存在が重なって、嫌な考えが頭をよぎった。
まさか、私が里帰りしている間に連れ込んだのか。
疑念が膨らみ、胸の奥がギュッと痛んだ。でも、それを認めたくなくて、他に何か説明があるはずだと思いたかった。深呼吸をして、何とか冷静さを保とうとした。
「住み込みの家政婦さんですか?」
強しは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに慌てて答えた。
「う、ああ。そうそう。家政婦の美春さんなんだ」
でも、その言葉はどこか嘘臭かった。家政婦が、自分たちの寝室のベッドで寝ているなんてありえない。疑念は深まるばかりだったが、私はその場で問い詰めることを避け、リビングに戻ることにした。
その後も、私は何とか冷静さを保とうと努力した。赤ちゃんを抱えながら、強しに質問を続けた。
「美春さん、いつから来てるの?」
「えっと、数週間前からだよ」
強しは目をそらしながら答えた。どうにも怪しい。
「美春さんが寝室で寝るのは普通なの?」
そう聞くと、強しはますます落ち着かない様子で「や……その、特別な事情があって」と言葉を濁した。私は強しの目をじっと見つめたが、彼はその視線に耐え切れず、黙り込んでしまった。何か隠しているとしか思えない。家政婦の存在について、全く説明できない様子だった。
そんな中、強しは美春を無理やり起こし、家政婦として振る舞うように命じた。美春は不満げな顔をしながらも、仕方なく従って家事を始めた。しかし、彼女がキッチンで雑に皿を洗う音がリビングまで響いてくる。本当に家政婦なら、こんな態度を取るはずがない。それに、強しの指示を受けて動く姿も不自然だった。
赤ちゃんを寝かしつけた後、リビングに向かう途中、私は強しと美春が隅でひそひそ話をしているのを見つけた。まだ私の存在に気づいていないようだ。
「ねえ、私、今晩どこで寝たらいいの? こんなに早く帰ってくるなんて思わなかった」
「今夜は近くのホテルに泊まってくれ。寂しいだろうが」
「この家にいづらくすればいいのよ。自分から出ていくように」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられるような痛みを感じた。私がいない間に、こんなことが進んでいたなんて。それでも私は、子供たちのために強くあろうと決めた。実家の両親にも、余計な心配はかけたくなかった。
しかし、強しと美春の言動は、日に日に露骨になっていった。私が家事をしていると、美春はわざとらしくため息をついて「本当、何もできないんだから」と小声で毒づく。強しもそれに笑って同意するようになった。食事の席でも、強しは美春に「お前の料理の方がずっと美味しいよ」と褒めちぎり、私を貶めるような発言を繰り返した。
その度に傷ついた。でも、今は子供が第一優先だ。彼らの冷たい態度に耐えながら、なんとかこの状況を乗り越えようと必死に考えた。
美春は家政婦ということになっているが、家のことは気が向いた時しかしない。それを強しに訴えても、「雇い主の俺が決めることだ」と取り合わない。それ以上に、私が家事をしている最中に美春は嫌がらせをするようになった。洗濯物にわざと汚れた衣類を混ぜたり、掃除を怠ってほこりを溜めたり。強しも、そんな美春の行動を見て見ぬふりをして、私の負担を増やすだけだった。
心が折れそうになりながらも、私は子供たちの笑顔を思い浮かべ、何とか踏みとどまった。赤ちゃんが泣くたびに、私は疲れた体を無理やり起こしてあやし続ける。すると美春は「うるさい」と文句を言い、強しも「少しは静かにさせろよ。イライラする」と冷たく言い放つだけだった。そんな二人に囲まれながら、私は次第に体力的にも精神的にも疲弊していった。
嫌がらせはさらにエスカレートしていった。美春は私が一生懸命片付けたリビングを無造作に散らかし、わざと私に片付けさせる。「あんたって本当に片付けが下手ね」と見下すように言ってきた。台所用洗剤に機械油を混ぜたり、とにかく私が困るように仕向けた。極めつけは、母乳に気をつけなければならない私に対して、料理をわざと焦がして押し付けることだった。
「これ、おっぱいが出るように作ったのよ。よかったな、彩子。気を使ってもらって」
「まあ……練習が必要だな」
そんなもの、口に入れられるわけがない。結局、まともな食事は取れず、自分の皿だけを洗って席を離れた。強しは子育ても手伝おうとせず、私の負担はますます増えるばかりだった。家にいる時間が長くても、何一つ助けようとしない。自分の子供を抱っこすることもしない。美春は強しと一緒に私を見下し、わざと手を抜いて家事をすることで、私が疲れ果てるのを楽しんでいるようだった。
赤ちゃんが泣くたびに、美春は苛立ちを隠さず「うるさい。少しは静かにさせられないの」と暴言を吐く。強しはその言葉に対して何も言わず、無視を決め込んでいた。まるで私が全ての責任を負うべきだと言わんばかりの態度だった。私は赤ちゃんをあやしながら、心の中で涙をこらえるしかなかった。どれだけ頑張っても、彼らは私の努力を認めない。むしろ、それを楽しんでいるように見えた。
朝から晩まで続く家事と育児。夜泣きで寝不足が続き、私の体の疲れは限界を迎えていた。
ある日、美春はさらに大胆になり、私の大切なものに手を出し始めた。私の宝物である結婚指輪を自分の指にはめて見せびらかし、「これって本当に価値あるの?」と嘲笑った。その瞬間、心が痛むなんてもんじゃなかった。強しもその行動をとめることなく、むしろ美春に同調している。
「強し、あなたがくれた指輪は結婚の証よ」
そう訴えても、強しは「お前、いつまで過去に縛られてるんだ?」と言うだけだった。その言葉に、絶望しか感じなかった。両親が送ってくれた赤ちゃん用品も、美春は「不注意だ」と言いながらわざと壊した。私は完全にノイローゼ状態に陥ってしまった。
ある朝、赤ちゃんの体を拭いていると、隣室から強しと美春の会話が聞こえてきた。
「ねえ、強し。あの女、まだ出てかないんだけど」
「まあ、時間の問題だ。もっと追い詰めたら、すぐに出ていくさ」
その日から美春はさらに大胆になり、私の大切なものを壊すことを楽しむようになった。母からもらったアンティークの花瓶が、リビングの床に散らばっているのを見つけた時、私は愕然とした。
「ごめんね。うっかり落としちゃった」
美春のその顔には、謝罪の色は微塵もない。「まあ、そんなもの、いつまでも取っておく必要ない。邪魔なだけだ」と吐き捨てるように言った。私は訴えるが、全て無視され続けた。
心の中では、何度ももう限界だと思った。それでも子供たちのために、なんとかしなければと自分を奮い立たせてはいたが、このまま大聖人を演じていることはやめようと決めた。強しにはもう愛情も感じない。こんな二人が近くにいると、子供にも悪い影響が出る。そう感じた。
そんなある日、疲れきっていた私の元に、友人の裕子から電話がかかってきた。偶然のタイミングだった。彼女の声を聞いた瞬間、私は堰を切ったように涙が溢れ、言葉が出なかった。裕子は私の異変に気づき、優しく「どうしたの?」と尋ねてくれた。私は無意識のまま、今までのことを全て打ち明けていた。強しと美春の酷い態度や嫌がらせ、そして私が感じている孤独と絶望感を、涙ながらに話した。裕子は黙って私の話を聞いてくれ、まるで私の苦しみを分かち合うように一緒に泣いてくれた。
そして、裕子は私の話を聞き終えると、怒りに満ちた声で言った。
「ひどすぎる。絶対に許せない。彩子、このままじゃああなたにも赤ちゃんにも良くないわ。なんとかして、この状況を変えるべきよ」
裕子は強く決心し、私に一緒に考えようと励ましてくれた。もっと早く裕子に相談すればよかった。彼女の強い意志とサポートに、私は少しずつ希望の光を見出し始めた。裕子は昔、夫の浮気が原因で離婚している。その知識と経験が、私にとって大きな支えとなった。
「大丈夫。私たちならできる」
裕子の励ましが、私に勇気を与えてくれた。私たちは力を合わせ、美春に対してどう立ち向かうか、具体的なステップを慎重に考えながら準備を進めていった。再び立ち上がる力を得た私は、裕子と一緒に計画を実行することを決意した。
そして、ついにその計画を実行する日がやってきた。
私は早朝から、美春に全ての真実を突きつけるための準備を整えた。心臓が高鳴る中、毅然とした態度で美春に向かい合った。最初は不適な笑みを浮かべていた美春も、私が集めた証拠と裕子のサポートを前にして、次第に表情が曇っていく。
「美春さん、これをどう説明するの?」
私は美春に証拠を突きつけながら問い詰めた。彼女はこの時、言葉を失い、驚きと苦痛の表情を浮かべた。
証拠集めとして、私はまず裕子と一緒に向かいの家にお願いして、防犯カメラの映像を確認させてもらった。
「この映像は、向かいの家の防犯カメラに映っていたのよ。私が里帰りしている間、あなたが強しと一緒にこの家に頻繁に出入りしていたのが、日付と共にはっきり映っている。家政婦がこんな時間に来る理由は何?」
美春は何も言えずに視線をそらした。次に、私は強しと美春が一緒にデートしている写真をテーブルに広げた。
「これらの写真は、裕子に相談した後、探偵に依頼して撮ってもらったものよ。どう見ても、ただの家政婦と雇い主の関係じゃないよね。この日は確か、あなたが『出張だ』と言っていたはずよ、強し」
強しもまた言葉を失い、顔を歪め、何も言えずに俯いた。
最後に、私は二人のLINEのやり取りをプリントアウトしたものを見せた。これは強しが入浴中にスマホの画面を撮影したものだ。そこには、私に対する悪口や侮辱の言葉が並び、二人が私を裏でどう扱っていたかが明白に示されていた。
「これは、あなたが入浴中に撮ったものよ。あなたは元々めんどくさがり屋で、スマホにロックをかけない。だから簡単に見れたわ。これが家政婦と雇い主の間で交わされる会話? あなたたちが私を裏でどれだけ馬鹿にして、邪魔物扱いしていたか」
私の怒りが涙と共に溢れ出して、声が震えた。強しも美春も、もうそれ以上何も言えなかった。そして美春はついに観念し、「もうやめてよ」と声をあげたが、私は毅然とした態度を崩さなかった。
「あなた、もう来なくていいわ。顔も見たくない」
美春は、その言葉を遮るように早足で部屋から出ていった。強しはその美春の背中を見つめていたが、止めるような言葉は出さなかった。
美春を追い出した後、次に私は強しに向き合った。強しは困惑した表情で私を見つめていたが、私はもう迷うことはなかった。
「この家で、私たちが一緒に暮らすことはもう無理よ」
強しは一瞬戸惑ったが、私の強い意思を感じ取ったのか、反論することなく頷いた。
「あなたとの生活は今日で終わり。離婚してちょうだい。離婚届はもう準備してあるから。そして今日中に、この家を出てって。この家は元々、私の両親が買ってくれたもの。私の名義なのよ」
強しは静かに「分かった。離婚しよう」と呟いた。これまでの彼の言動が全て明らかになり、反論の余地などなかったのだ。その姿を見て、私は少しだけ胸の重りが取れたような気がした。これでようやく、子供たちと共に新たな未来を築いていける。そう思った。
強しを追い出してから、約一ヶ月が経過しようとしていた。
結果的に、裕子が美春の職場に意図的に流してくれた噂が広まり、美春は信頼を失って辞職に追い込まれた。彼女の冷酷な行動や不誠実さは職場でも有名だったため、今回のことが引き金となり、誰も彼女を信用しなくなったのだ。最初は強気だった美春も、次第に孤立し、最終的には辞めざるを得なくなった。その後、彼女がどうなったかは知らないが、私の人生から完全に消えていったのは確かだった。
強しもまた、会社にいづらくなり、最終的には退職に追い込まれた。彼も美春と同様、以前からの不誠実な行動や自己中心的な振る舞いが原因で、今回の件が決定打となり、同僚たちからの信頼を完全に失った。さらに、自分の両親からも見放された。不真面目で脱落した性格でも若い頃なら就職できたかもしれないが、今では年齢と共に体力も衰え、どこにも採用されず、孤独な路上生活に陥っていった。そしてついには、幼稚園児のお菓子を盗むという情けない行動をして、警察に逮捕されたという噂も聞いた。私は複雑な気持ちになったが、彼が起こした自らの行動の結果を受け止めるしかないのだと感じた。
その頃の私はと言うと、子供たちと一緒に実家の近くへ引っ越して、新しい生活を始めていた。子供たちの笑顔が、私にとって何よりの励みだ。毎日が平穏で、笑い声が耐えない生活を送っている。これからの私たちに待ち受けているのは、希望と幸福に満ちたものであることを、私は心から信じている。



