朝の通勤電車の中、上司が私の胸を突き飛ばして新幹線に乗り込み、三年間かけて開発した私の研究成果を横取りした。営業本部長は、私を足蹴にして笑いながら関西へ向かった。…

朝の通勤電車の中、上司が私の胸を突き飛ばして新幹線に乗り込み、三年間かけて開発した私の研究成果を横取りした。営業本部長は、私を足蹴にして笑いながら関西へ向かった。...

みな瀬さんの胸を押し飛ばしたのは、営業本部長の分厚い手だった。車内に足を踏み入れようとした瞬間、その手が彼女の体をホームの冷たいコンクリートへ突き放した。ああ。閉まる自動ドアの向こうで、男と女が腹を抱えて笑っている。

「みな瀬さん、会社で雑用でもしててくださいね。」
「え、あの、まあ…」

扉が完全に閉まった。新幹線は滑り出し、ホームに取り残された一人の女性研究員が、消えゆく車両を呆然と見つめていた。彼女の名前はみな瀬香。三年間、ほぼ一人で開発を進めてきた南病治療薬の全資料は、今まさに奪われたまま、関西へ向けて運ばれていく。

あの日、立花製薬の社長室で交わされた約束を、香はまだ覚えている。もう十年以上前のことだ。病院のベッドで、みな瀬ひさ子――香の母であり、立花誠治の親友だった女性――が細い声で言った。
「誠治さん、娘のことを頼むわ。あの子、不器用で、人に頼るのが苦手なの。職場でうまくやっていけるか、心配で仕方ないの。」
「任せなさい。ひさ子さんの娘だろ。ちゃんと見てるから。」

その約束は、立花誠治が決して欠かしたことのないものだった。毎月一度、彼は病院に通い、ひさ子の墓前に線香を供える。彼女が亡くなってからも、一度も途絶えたことはない。
「お前の娘なら、きっとやってくれるさ。」
独り言は、誰もいない部屋に消えた。机の引き出しの中には、色あせた封筒と、二十年前の写真が静かに眠っていた。

翌朝。立花製薬の本社ビル、研究員フロアの片隅。香は朝七時から一人、机に向かっていた。書類の山を整理しながらも、頭の中はあの日の新幹線のことがぐるぐると回っている。

「みな瀬さん、ちょっといいか。」
顔を上げると、営業部の若い社員が立っていた。
「あの、昨日の会議の件なんですけど…」
「部長は何か?」
「いや、ちょっと確認したいことがあるって。応接室に来てください。」

香は書類を置き、応接室へ向かった。ドアを開けると、営業本部長と、関西から来たという取引先の役員がソファに座っていた。空気が張り詰めている。

「みな瀬さん、座ってください。」
本部長が口を開いた。
「昨日のプレゼン、君の実績がどうだったか、改めて確認したいんだが。」
「はい。あの…南病治療薬の臨床データは、私のチームがまとめたものです。」
「チームって、君一人でやってたんじゃないか?」
「確かに、主導は私ですが…」

その瞬間、香は悟った。資料を奪われただけではない。昨日の新幹線で、本部長と同席していた女性社員が発表役を務めたはずだ。先方には「みな瀬の資料は、あの女性社員が開発したことになっている」と報告されている。自分は、単なる名義貸しに過ぎない役回りを押し付けられようとしている。

「ですね。あの女性研究員が主担当です。みな瀬さんは補佐ということで、書類も彼女名義にします。」
「そんな…」
「決定事項です。君は来月から、別の部署で雑務をやってください。」

本部長の声は平坦だった。香の三年間は、その一言で帳消しにされた。

その夜、香は自宅で一人、冷めた缶コーヒーを飲みながら、机の上に積まれた古い資料を広げていた。それは母の遺品だった。ひさ子は生前、製薬会社の研究者として有名だった。彼女が残したノートには、ある薬の開発過程が細かく記されている。その薬は、かつて立花製薬が袖にした化合物だった。

香はページをめくる手を止めた。母の文字は、日付ごとに丁寧に綴られている。あるページには、こう書かれていた。

『この化合物は、必ず誰かの命を救う。でも、会社は開発中止を決めた。私は諦めない。いつか、必ず陽の目を見せてみせる。』

香の指が、その文字の上をなぞる。胸の奥で、何かが音を立てて動き始めた。

翌日、香は立花製薬の社長室を訪れた。応対した秘書は、スケジュールにない面会を渋ったが、香は一枚の封筒を差し出した。
「これを、社長に直接お渡しください。」
「こちらで承りますが…」
「いえ、必ず社長の手に。ここに、母の遺書が入っています。」

秘書は一瞬迷った後、封筒を受け取り、部屋の奥へ消えた。数分後、香は社長室に通された。立花誠治は、机の上に広げられた文言をじっと見つめていた。

「みな瀬さん…これは、君の母君の研究データか。」
「はい。母は亡くなる直前に、私にこのノートを託しました。ここには、立花製薬が二十年前に放棄した化合物の、完全な開発データが入っています。」

誠治は深く息を吸った。
「昨日、君の資料が横取りされた、と聞いた。」
「はい。」
「許せないな。」

その言葉には、予想外の感情が込められていた。香が顔を上げると、誠治の目は静かに燃えていた。

「私は、ひさ子さんに約束したんだ。娘を守ると。その約束を、私は今まで一度も果たせていない。」
「社長…」
「みな瀬さん。このデータを使って、君の研究をやり直してほしい。今度は、私が全面バックアップする。」

香は、自分の目を疑った。しかし、誠治の顔は真剣そのものだった。

「来週、関西の本社で、大手取引先との最終会議が開かれる。私はそこで、君の研究成果を発表するつもりだ。君も来てくれ。」
「あの…私がですか?」
「ああ。お前の母の研究が、あの男どもに踏みにじられるとは思えん。」

香の喉が震えた。母の遺品が、こんな形で自分に力を貸してくれるとは思ってもみなかった。

それからの一週間、香は猛烈な勢いで研究を再開した。母のノートには、当時誰も気づかなかった新たな構造式があった。それを組み合わせることで、南病治療薬の効果を飛躍的に高める可能性がある。香は深夜まで実験室に籠り、データをまとめ上げた。

迎えた会議当日。関西・立花製薬本社の大会議室には、業界最大手の幹部がずらりと並んでいた。香は、営業本部長と共に席に着く。本部長は、得意げな顔をしていた。

「本日は、弊社が開発した南病治療薬の最終プレゼンを行います。発表は、開発主担当の真田さんです。」

その時、前の席から聞き慣れた声が響いた。
「待ちなさい。」

立花誠治が、静かに立ち上がった。会議室の空気が一瞬で凍りつく。
「本日の発表は、みな瀬香さんが行います。彼女こそが、この薬の真の開発者です。」

本部長の顔色が、一瞬で真っ青に変わった。
「社長、どういうことですか…」
「資料を横取りしたのは君だろう。新幹線で、みな瀬さんを突き飛ばしたのも。」
「そんな、私は…」
「私は知っている。みな瀬さんの母、ひさ子さんは、私の恩人だ。彼女の研究を侮辱する者を、私は許すつもりはない。」

香は立ち上がり、母のノートから得た新データを示しながら、発表を始めた。構造式の改良点、臨床データの正確性。自分の言葉で、自分の成果を、自分の名で伝えることができたのは、この日が初めてだった。

会議が終わった後、誠治は香に近づき、小さく頷いた。
「よくやった。約束を果たせたよ。」

香は涙をこらえながら、母の写真をそっと触れた。
「母さん…見てくれましたか。私、やっと自分の足で立てました。」

数日後、営業本部長は人事異動の形で静かに退職した。香は、新設された研究開発室の室長に任命された。机の上の引き出しには、あの日、誠治が渡した古い封筒がしまわれている。中には、二十年前の写真と、一枚の遺書があった。

『娘へ。あなたは私の誇りです。』

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