午前五時、古い団地の台所で半額弁当を温めていたら、銀行から電話が鳴った。「おじいさん、あんたの口座はもう要らないよ。時は金なりだからね」若い行員の笑い声が、スピーカーから漏れた。十年前、妻を看取った日に開いた口座だった。給料振込も、孫の学費も、全部そこだった。私は作業着のまま銀行へ向かった。窓口で名前を告げると、近眼の上司がため息をついた。「社員十万人のご来店?まさに嘘つきご来店ですね」ロビ…

午前五時、古い団地の台所で半額弁当を温めていたら、銀行から電話が鳴った。「おじいさん、あんたの口座はもう要らないよ。時は金なりだからね」若い行員の笑い声が、スピーカーから漏れた。十年前、妻を看取った日に開いた口座だった。給料振込も、孫の学費も、全部そこだった。私は作業着のまま銀行へ向かった。窓口で名前を告げると、近眼の上司がため息をついた。「社員十万人のご来店?まさに嘘つきご来店ですね」ロビ...

「社員十万人のご来店って、まさに嘘つきご来店ってやつですね。」

若い銀行員が吹き出し、近眼メガネの上司が深いため息をついた。

「時は金なりなんですよ、おじいさん。妄想に付き合っている暇はない。うちに口座があるなら、今のうちに解約してください。他所がお似合いだ。」

忍辺銀行初音町支店のロビー。窓口の前に立つのは、くたびれた作業着を着た老人だった。その手には、丁寧に包装された和菓子の箱があった。

「待ってください。」

その時、若い女社長が立ち上がった。作業着姿のまま、番号札を握りしめて。

「さっきからお客様に向かって、その言い方はないでしょう。」

「あのね、あなたには関係ない話でしょう。それとも業務妨害ですか?本社との関係も見直さなければなりませんね。」

「え、それとこれとは…」

「お嬢さん、いいんだ。ありがとう。」

老人は怒らず、静かに告げた。

「時は金なりでしたかな。承知しました。」

「物分かりが良くて結構です。」

老人はその場で携帯電話を取り出し、短く一言だけ言った。

「ああ、わしだ。ああ、全部進めてくれ。」

数秒後、支店のあちこちで端末が一斉に鳴り始めた。

「課長、大型法人口座の解約通知です。それも何件も…」

モニターの上で、解約の表示が次々と灯っていく。一社、二社、三社。まるで病気の診断書のように正確に、容赦なく。

事務室は一斉に騒ぎになった。ただならぬ空気が立ち上がり始める。

「と、止めろ。全部止めろ。処理を保留にしろ!」

だが、その電話一本がこの支店を丸ごと消し去ることになるとは、まだ誰も知らなかった。

すべては、十年前のあの時の縁から繋がっていた。

午前五時。まだ薄暗い住宅街の一角。築四十年を超える古い一軒家で、岩尾の一日は始まる。

起き抜けにまず向かうのは、泣き別れの仏壇だった。線香に火を灯し、細い煙がゆらゆらと天井へ立ち上るのを眺めながら、岩尾は写真の中の妻へ語りかける。

「静さん。今日はな、先月から世話になっとる銀行さんへ、挨拶と手続きの仕上げに行ってくる。」

朝飯は、昨夜スーパーで買った半額の弁当だった。

「今日も半額が買えたなあ。」

贅沢はせんでいい。豪邸にも高級車にも縁がない暮らし。近所の住人は、彼を気のいい現場の親方さんだと思っている。生前の妻は、そんな夫を見てよく笑っていた。あなたは社長より親方の方が似合うわね、と。

だが、この老人の本当の顔を知る者は、この町内に一人もいなかった。

湯呑みを傾けるうち、岩尾はぽつりと呟いた。

「早いもんだ。晴れてから、もう四十年になる。」

四十年前の雪の夜。創業して間もない頃、取引銀行に突然融資を打ち切られた。手形の決済に追われ、苦楽を共にした職人たちに頭を下げて辞めてもらうしかなかった。

「すまん。本当にすまん。」

雪の降る事務所の前で、何度も何度も頭を下げた。守ってやれなかった職人の家族。あの夜の冷たさを、岩尾は一日たりとも忘れたことがない。

そして、あの夜、自分へ誓った言葉がある。

「筋を通さない相手と、銭の付き合いをするな。」

胸の奥で、あの夜の誓いが静かに蘇った。その言葉は四十年間、岩尾の行動の背景であり続けてきた。

食卓の上の携帯電話が震えた。相手は、長年連れ添った仕事の相棒である。

「会長、ご入金の手続き、昨日付けで全て完了いたしました。」

「ご苦労さん。なら、あれは挨拶だな。世話になる相手には、預ける側から顔を見せて頭を下げる。それが筋だ。明日と言わず、今日、わしが直接行く。」

「会長自らですか? 先方にはこちらから出向かせることもできますが。」

「銭を預ける窓口に、顔も見せず経営者がいるか。予約だけで頼む。」

電話を切った岩尾は身なりを整えた。しかし、その服装はいつもの作業着である。銀行へ行く前に、朝の現場へ顔を出すのが日課だからだ。

ただし、手土産の和菓子だけは、町で一番の和菓子屋で調えた。白い包装紙に、桜の焼き印。世話になる相手への手土産にだけは、銭を惜しまない。それも妻から教わった流儀だった。

「行ってくるぞ、静。」

写真の妻は、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔だった。

同じ日の朝。忍辺銀行初音町支店の事務室では、朝礼が開かれていた。

店長は今朝、本部から支店再編検討会議へ急に呼び出され、面談の引き継ぎもそこそこに不在となっていた。現場の采配を振るのは、支店長代理の神木竜二。四十五歳。本店への栄転を狙う、この支店の実力者である。

「いいか、時は金なりだ。数字の悪い支店から再編の候補に上がる。低所得の客に時間を使うな。今日は人も足りん。長話の年寄りは早めに切り上げろ。」

事務室の空気が、ピンと張り詰めた。誰も反論しない。この支店では、神木の機嫌がすべてだった。

神木は続けて、一枚の書類を掲げて見せた。

「先週、隣の支店で、大手企業の顧問を名乗る怪しい老人の相手に、窓口が半日潰されたそうだ。いるんだよ、そういう承認欲求を満たしに来る大物気取りが。縁があっても相手にするな。」

最前列で迷いなく頷いたのは、九条。二十五歳。有名大学を出て、本店の幹部候補に選ばれた入行二年目の数字と効率で割り切ることを信条にしている自称エリートだ。

「効率優先。了解です。」

朝礼の後、九条は不在となった支店長の予定を全て電話で組み直したつもりだった。だが、本店経由で入った面談の一件だけは、支店の通常リストに表示されておらず、連絡の網から静かに漏れ落ちていた。九条のタブレットの中で、その日の支店長の予定欄は全て調整済みと表示されていた。

午前十時。自動ドアが開き、和菓子の箱を掲げた作業着の老人が入ってきた。

受付に立つ九条は、客を上から下までゆっくりと眺めた。よれた作業着。日焼けした首筋。くたびれた安全靴。

「汚い作業着だな。うちの客層じゃない。」

心の中でそう呟いた。

「伊と申します。店長さんと十時にお約束をしていただいております。」

「お約束ですか?」

タブレットの画面を軽く撫で、九条は首を振った。

「支店長は本日、終日不在です。ご予約も全て調整済みのはずですが、お名前はございませんね。それで、ご用件は?」

「給与振り込みの件で、本店のご挨拶に伺いました。」

「給与振り込み。失礼ですが、何名様分のお話でしょう?」

「グループ全体で、十万人ほどになります。」

九条の手が止まった。聞き間違いかと顔を上げ、目の前の作業着を改めて眺め、それからこらえ切れずに口の端が緩んでいく。

「十万人。ということは、大企業の会長さんということですか? その作業着で?」

「ええ。確認していただければ分かることです。と言っても、今日はご挨拶に来ただけですがね。」

九条は笑いを噛み殺し、「少々お待ちください」とカウンターの奥へ下がった。呼ばれてきたのは、課長の神木。

「神木課長。例の大物気取りが出ました。社員十万人の会長様だそうです。」

「ほお。」

神木は老人を、上から下まで舐めるように眺めた。

「失礼ですが、もう一度伺いましょう。給与振り込みを、何名様分です。」

「グループ全体で、十万人です。」

一拍の沈黙。先に吹き出したのは、九条だった。

「ふっ、もうだめだ。社員十万人。はい、嘘つきご来店ってやつですね。まさか、こういう人が本当に現れるなんて。」

若い笑い声に、ロビーの客たちが振り返る。神木も口元を歪めて続けた。

「この身で十万人を束ねる会長様。随分とお安い会長もいたものだ。」

「お客様。失礼ですが、当行は大切な手続きほど、厳格でしてね。時は金なりだ。茶番に付き合う暇はないんですよ、おじいさん。」

岩尾は表情を変えず、静かに和菓子の箱を抱え直した。ロビーの隅では、作業着姿の若い女性が番号札を握りしめて順番を待っていた。

岩尾は怒らなかった。代わりに、鞄から書類を一枚取り出し、カウンターへ静かに置いた。

「お伺いなら、それで結構です。法人名で調べていただけますか? 伊井グループ。本店経由で手続きが進んでおります。お電話一本で済む話です。」

「あのですね、アポのない方のお調べ物は、いたしかねます。」

一度目の拒否は、神木の営業スマイルと共に帰ってきた。

「では、本店の法人部に確認だけでも。わしは十五の時から飛び職をやって、中学しか出らん叩き上げです。学歴はないが、その分、嘘だけはつかんと決めて生きてきました。」

神木は大げさにため息をつくと、老人の耳元へ顔を寄せた。

「はあ。中卒の叩き上げ。ますます胡散臭い。学歴がないから、ご自分の妄想と現実の区別もつかないのでしょう。鏡をご覧なさい。その作業着のどこに、十万人の会長がいるんです。」

二度目の拒否。岩尾の眉ひとつ動かない横顔を、神木は言い返せずに耐えていると読み違えていた。

それでも岩尾は、三度目を口にした。

「確認をお願いします。それが銀行員の仕事のはずです。」

「あんたの妄想の十万人に付き合っている暇はない。こっちは一日が忙しいんだ。口座があるなら解約しろ。他所がお似合いだ。いいですか? 大切なあなたのためを思って申し上げているんですよ。」

毒は囁きで、芝居は大声で。その使い分けは見事なほど滑らかだった。長年そうやって客を選別してきた人間の、手慣れた所作だった。

ロビーのあちこちから忍び笑いが漏れる。遠巻きの客たちの目に映っているのは、親切な行員と困った老人の構図だけだった。

岩尾は和菓子の箱の紐を指先で静かに撫でた。世話になるはずだった相手への手土産は、行き場を失ったまま腕の中で重みだけを増していた。

その時。

「待ってください。」

ガタンと椅子のなる音がした。立ち上がったのは、番号札を握りしめた作業着の若い女性だった。望月千紘、二十七歳。父から従業員八名の小さな工務店を継いだ、二代目の社長である。この日は銀行に呼ばれて、融資の相談に訪れていた。

「私には聞こえてましたよ。さっきからお客様に向かって、その言い方はないでしょう。この方は、電話一本で調べられるって頼んでいるだけじゃないですか?」

「ああ、望月工務店の。あのね、あなたには関係ない話でしょう。」

「関係なくても、聞くに堪えません。」

ロビーが静まり返った。岩尾は初めて、千紘の顔をまっすぐに見た。すり切れた作業着。ヘルメットの跡が残る髪。固く握り締められた番号札。怯えながら、それでも一歩も引かない若い目。それは、遠い昔に見た鏡の中の自分と重なって見えた。

沈黙を破ったのは、神木の低い笑い声だった。その視線はゆっくりと千紘へ向き直る。

「望月さん。さあ、困りますね。こういうのは、当行には規定というものがあるんですよ。他のお客様のお手続きへの口出しは、業務妨害になりかねない。最近は、ご高齢の方の迷惑行為も増えておりましてね。規定では、警備や警察への通報も可能なんですよ。」

「そうそう。現に、こちらのご老人は、ありもしない十万人で窓口を妨害しようとしている、立派な営業妨害だ。あなたも、その片棒を担ぐおつもりで?」

「この方は、調べてくれと言ってるだけです。」

「うやれやれ。話の通じない人だ。」

神木は腰を屈め、千紘の耳元だけに届く声で囁いた。

「ところで望月さん。明日は、あなたにとって大事な大事な、審査結果の日でしたね。お互い、賢く行きませんか?」

「え、それとこれとは…」

千紘の顔が、すうっと青ざめた。唇を噛む千紘。その肩が小さく震えるのを見て、岩尾が静かに二人の間へ歩み出た。

「おやじさん、立場を匂わせて人を黙らせるのは、感心せんなやり方ですな。」

低く穏やかで、しかしロビーの隅まで届く声だった。だが、神木はふっと鼻で笑った。

「人聞きの悪い。規定の説明をしただけですよ。ご老人の相手に付き合う時間はないんです。時は金なり。お引き取りを。」

ロビーの客たちは、もう興味を失い始めていた。作業着の老人がエリート銀行員に言い負かされる。彼らの目には、そういう決着に見えたのだろう。

岩尾は、それ以上何も言わなかった。言い返す言葉なら、いくらでもあった。だが、ここで吠えることに意味はない。

「筋を通さない相手と、銭の付き合いをするな。」

四十年前の誓いが、胸の奥で低く脈打った。

「承知しました。」

深く丁寧な一礼だった。それから岩尾は千紘に歩み寄り、震えたままの方にそっと手を添えた。

「お嬢さん、行こう。ここは、あんたが頭を下げる場所じゃない。」

二人が自動ドアへ向かう背中に、神木の声が投げつけられる。

「望月さん、明日を楽しみにしていてくださいね。」

九条の小さな笑い声が、それに重なった。

自動ドアが閉まる瞬間、ロビーのざわめきが背中で途切れた。外の風は、春にしては冷たかった。

支店から少し歩いた角に、古い喫茶店があった。木の扉を押すと、カランコロンと真鍮のベルが鳴る。年配のマスターが黙ってカップを磨いている、昔ながらの店だ。

年季の入った椅子に荷物を下ろすなり、千紘は深々と頭を下げた。

「すみません。私が余計なことをしたばかりに、あんな…」

「顔をあげなさい。あんたは何も間違っとらん。筋を通しただけだ。」

運ばれてきたコーヒーの湯気の向こうで、千紘の目が少しだけ潤んだ。岩尾はコーヒーを一口すすると、静かに切り出した。

「それより、気になっとることがある。あの課長さん、別れ際に『明日』と言うとったな。審査というのは、融資のことかい?」

「はい。実は資材費がどんどん上がって、正直毎月が綱渡りで。今、運転資金の融資をお願いしていて、明日がその審査結果なんです。」

「そうか。失礼だがあんた、随分若いな。その年で会社を継いだのか?」

千紘は、ぽつりぽつりと話し始めた。十五歳で中学を出て、家計を支えるために父の現場へ入ったこと。鉄筋の結び方も、見積もりの作り方も、全て現場で覚えたこと。二年前に父が病に倒れ、八人の職人と会社を継いだこと。

「でも、職人さんと下請けさんへの支払いだけは、一度も遅らせたことがありません。それだけは、父の代からのうちの筋なんです。」

千紘は胸ポケットから、小さな印鑑を取り出した。角のかけた、古い印鑑だった。

「父の印鑑です。現場で『沈むなら本物の船で沈む』なんて言ってたのに、最期は病院のベッドでした。私に残してくれたのは、借金と八人の職人と、それからこの印鑑だけです。」

「そんなことがあったのか。」

「あまり聞きませんよね。中卒の女が社長なんて、笑われることも多いです。」

「そんなことはない。立派なもんだ。」

「ありがとうございます。でも、十年前、父の会社が潰れかけたことがあったんです。その時、名前も知らない元受けさんが、下請けさんへの支払いを黙って肩代わりしてくれて。父は最期まで、あの人は名乗りもしなかったって。あの恩があるから、私は支払いの筋だけは絶対に曲げないって決めてるんです。」

コーヒーカップを持つ岩尾の手が、わずかに止まった。

「十年前と言ったか。」

「はい。私が中学を出て、現場に入ったばかりの頃でした。」

「その元受けは、最後まで名乗らなかったんだな。」

「はい。父が手がかりを探したんですけど、結局分からず仕舞いで。せめて一言だけでもお礼を言いたかったって、亡くなる少し前まで言ってました。」

展望工務店。十年前、下請けへの支払い。名乗らぬ元受け。バラバラだった欠片が、岩尾の中で一つの記憶へと静かに繋がっていく。

あれは、下請けの連鎖倒産が相次いだ年だった。倒れかけた小さな工務店に、最後まで職人を守ろうとする頑固な社長がいる。その話を聞いた時、岩尾の頭に浮かんだのは、四十年前の雪の夜に切り捨てた五人の職人の顔だった。

あの時守れなかったものを、今度こそ。岩尾は関係者に命じて、その工務店の支払いを黙って肩代わりさせた。名乗るな。礼も受けるな。条件はそれだけだった。名乗れば、恩は借りになる。施しは、人の誇りを折る。あれは善行などではなく、ただの罪滅ぼしだ。礼を言われるものではない。だから、名乗らなかった。

あの時、報告書の隅にあった署名は、確か。展望工務店。

それは、わしだ。

声には出さず、岩尾は胸のうちで呟いた。あの頑固な社長の娘が、今目の前で同じ筋の話をしている。だが、岩尾は名乗らなかった。恩を着せるのは、岩尾の流儀ではない。

代わりに、若い日の自分と同じ目をしていた娘へ、静かに言った。

「あんたの親父さんは、いい筋を残した。明日、胸を張って結果を聞きに行きなさい。」

「はい。」

店を出る時、千紘がふと尋ねた。

「あの、おじいさんは、どこかの会社の方なんですか?」

「ただの現場上がりの年寄りだよ。嘘は言ってない。」

別れ際に受け取った名刺。展望工務店 代表取締役 望月千紘。その小さな紙を、岩尾はしばらく長い間、眺めていた。

その夜。古い一軒家の前に、一台の黒塗りの車が音もなく止まった。降り立ったスーツの男が、玄関先の老人へ深々と一礼する。

「夜分に恐れます。お手配の件、ご指示を。」

「ああ、頼む。」

近所の住人が見たら、目を疑ったかもしれない。気のいい親方さんの家の前に、運転手付きの黒塗りの車。だが幸い、その光景を見ている者は誰もいなかった。

車が夜の町を滑り出す。後部座席で、岩尾は窓の外へ目を向けたまま静かに口を開いた。

「初音町支店の口座、全部引き上げる。書類は今夜中に揃えろ。給与振り込みの切り替え先も手配だ。」

「はっ。全部ですか? あの数を一晩で…」

「できんか?」

「いえ、承知しました。」

男は眉ひとつ動かさず、手帳を開いた。長くこの老人に使えてきた者だけが持つ、迷いのない手だった。

「それと、一つご提案が。銀行の窓口には、先方自身の録画と録音が残っています。本店に提出させれば、本日の対応は全て裏が取れます。明日は私が同行し、東部も正式に記録を取りましょう。」

「そうだな。記録は、嘘をつかんからな。」

「明日あちらは、それなりの覚悟へいることになりますな。」

「そうだなあ。」

窓の外を、忍辺銀行の看板が静かに流れていった。やがて車は、都心にそびえる一際の高層ビルへ吸い込まれていく。深夜のビルに、一つ、また一つと明かりが灯り始めた。

誰が、何のために動き出したのか。それを知る者は、まだ銀行には一人もいない。

膝の上には、一枚の名刺があった。展望工務店。岩尾はそれにもう一度目を落とし、低く呟いた。

「明日、あの子の融資の結果が出る。あの銀行に、人を見る目があるのか。わしのこの目で確かめてからだ。」

誰かを潰すための夜ではない。筋を確かめるための夜だった。

翌朝。開店前の初音町支店の事務室は、上機嫌な空気に包まれていた。

「九条君、展望工務店の件、書類はできてるか?」

「お断りの理由書ですね。スコア表も添えて、完璧です。」

「結構。ああいう跳ね返りはな、一度きっちり潰しておくのが組織のためなんだよ。見せしめというのは、最高に効率のいい教育なんだ。」

「時は金なり、ですね。」

「分かってきたじゃないか。」

二人は声を立てて笑った。

同じ頃。展望工務店の小さな事務所では、千紘が仏壇の前で作業着の襟を正した。机の上には、職人たちの給与明細。融資が通らなければ、数字は埋まらない。それでも千紘は、昨日の老人の言葉を心の中で繰り返していた。

「胸を張って、結果を聞きに行く。」

父の印鑑を胸ポケットへ収め、千紘は事務所を出た。

午前十時前。支店の自動ドアが開き、昨日と同じ作業着の老人が入ってきた。ただし今日は、一人ではない。隣には、昨夜の黒塗りの車から降り立ったあのスーツの男。その胸ポケットでは、小型のレコーダーが静かに回っている。

ロビーへ進んだ岩尾の足が、ふと止まった。奥の相談スペースから、聞き覚えのある声が漏れてくる。

「スコアリングの結果です。数字は嘘をつきません。これが合理的な結果なんですよ。」

パーテーションの向こう。テーブルの前で、九条がタブレットを掲げていた。隣に座る神木が身を乗り出し、千紘の耳元へ顔を寄せた。

「昨日の単価の代償だよ、望月さん。うだつの上がらない女社長に貸す金は、うちにはない。残念ながら、審査の結果です。お帰りはあちらですよ。」

千紘は唇を噛み、机の下で父の印鑑を握りしめた。給料日まであと五日。頭の中を八人の職人の顔と数字が、ぐるぐると回り続けている。

「せめて、理由だけでも教えてください。」

「理由? 今彼が言ったでしょう。数字ですよ。」

「数字?」

その時だった。

「その話、待ちなさい。」

パーテーションの向こうから、低い声が響いた。振り返った神木と九条の顔に、一瞬の戸惑い。それから、昨日と同じ嘲笑が浮かんだ。

「はっ、なんだ? 昨日の嘘つきじいさんじゃないですか。懲りずにまた来たんですか? もうボケてるのかな? 今日は警備呼びますよ。」

二人の笑いを断ち切るように、スーツの男が一歩前へ進み出た。差し出されたのは、一枚の名刺だった。

「伊井グループ、取締役の岡田と申します。誠に三十年に渡り、伊井会長に仕えてきた、専務取締役でございます。」

「伊井グループ…」

「こちらにいらっしゃるのは、当グループ創業会長、伊井岩尾様。銀行に預金総額一千二百億円。グループ十社、給与振り込み十万人分をお預けしている、ご本人です。」

「はあ…」

時間が止まったようだった。神木の口は半開きのまま動かない。九条の手からタッチペンが滑り落ちて、床を転がった。その小さな音だけが、やけに大きく響いた。

「昨日は本店経由で、支店長様宛てに面談のお約束も入っておりました。確認の電話一本、なさいませんでしたな。」

千紘が、信じられないものを見る目で老人を見上げた。

「会長…おじいさんが…」

昨日喫茶店で「ただの現場上がりの年寄りだよ」と笑った老人が、何も変わらぬ佇まいでそこに立っていた。

凍りついた空間で、最初に口を開いたのは神木だった。

「くっ、九条君。これはあれだ。ドッキリというやつだ。」

「で、ですよね。今時、会長が作業着で銀行に来ます? ありえませんよ。演出です。」

「演出だよな。それにしては、飯田の髪がやけに上等だが。ロゴの箔押しも妙に本物っぽいですね。」

「いやいや、こういうのは調べれば一発ですよ。」

震える指がタブレットの法人検索に「伊井グループ」と打ち込む。表示された画面を見て、神木の呼吸が止まった。法人口座十件。残高の欄に並ぶ桁を、九条は三度数え直した。

「あ、ある。本当にある。一千二百億…」

岩尾は、慌てふためく二人を責めるでもなく、懐からスマートフォンを取り出した。そして、短く一言。

「ああ、わしだ。件の件、全部進めてくれ。」

電話が切られて数秒後、支店のあちこちで端末が一斉に鳴り始めた。

「課長! 法人口座の解約通知です! 伊井建設、伊井物流も来ました!」

モニターの上で、解約の表示が次々と灯っていく。一社、二社、三社。まるで病気の診断のように正確に、容赦なく。事務室は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、ロビーの客たちまでもがただならぬ空気に立ち上がり始めた。

「と、止めろ! 全部止めろ! 処理を保留にしろ!」

神木が端末にしがみつき、規定の画面を呼び出す。そして自分の声が震えていることに気づきながら、読み上げた。

「預金者は、いつでも預金契約を解約することができる。銀行側に拒否権はありません…」

切り捨てたはずの客に、自分たちが切り捨てられていく。効率を崇拝した男が、誰よりも効率的に進んでいく解約の前で、なす術もなく立ち尽くしていた。

そして、本店からの直通電話が、けたたましく鳴り響いた。

「初音町支店! そちらで何が起きている!? 大口法人の解約が止まらんぞ!」

ロビーでは、騒ぎを聞きつけた客たちのざわめきが広がっていた。

「伊井グループって、あの伊井テレビでCMやってる…」

声はあっという間に伝播し、スマートフォンを抱える手があちこちで上がる。九条は握りしめたスコア表が、手の中でくしゃくしゃに潰れていることにようやく気がついた。

「会長、滞りなく進んでいます。」

「うん。では、行こうか。」

我に返った神木と九条が顔を上げた時、作業着の老人とスーツの男の姿は、すでにロビーから出ていくところだった。

「ま、待て! 待ってくれ!」

二人は駐車場まで全力で走った。革靴が悲鳴を上げ、ネクタイが乱れる。黒い車のテールランプは、ちょうど信号の向こうへ滑り出すところだった。

「会長! お話を! お話をさせてください!」

手を振り、叫び、何度も頭を下げる。すれ違う通行人が、何事かと振り返る。やがて車は、街路樹の向こうへ消えた。

「行っちゃいましたねえ…」

「おい、九条。あの口座が全部消えたら、この支店はどうなる?」

「数字の上では、終わります。」

九条はその場に膝をつき、神木は乱れた髪のまま、呆然と空を見上げた。

後部座席の老人は、最後まで一度も振り返らなかった。

その足で、岩尾と岡田が向かったのは、忍辺銀行の本店だった。

「伊井グループの岡田と申します。会長がお見えです。今から伺います。」

その頃、本店の最上階は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。同行最大級の法人顧客の全十口座。総額一千二百億円が、理由も分からぬまま流出し続けている。

重厚な扉が開くなり、頭取の新行寺総一郎、六十三歳が自ら立ち上がって二人を迎えた。叩き上げで頭取まで登り詰めた、この銀行の最高責任者である。額には汗が滲んでいた。

「伊井会長、お待ちしておりました。本社の件は、全て報告が上がっております。預金者様のご意思を、当行が止める通りはない。それも承知しております。ですが、ひとつだけ聞かせて願えますか? 当行の何がご不興に触れたのか。それすら、分からぬのです。」

岩尾は答えず、岡田へ目配せをした。岡田が机の上に、レコーダーと一枚の書面を静かに置いた。

「理由は、これが全てです。本日の当行初音町支店での録音。合わせて、昨日の窓口の録画・録音記録の保全と提出を、正式に要請いたします。」

「録音…」

再生される音声。これが合理的な結果。昨日の単価の代償。嘘つきじいさん。毒の一言一言が応接室に響く度に、新行寺の顔は見る間に青ざめていった。

「そういうことでしたか。なんと申し上げてよいか…」

そこへ、秘書が駆け込み、一枚のメモを差し出した。

「初音町支店、伊井グループ関連の全十口座、解約手続き完了。」

分かっていた知らせでも、その重みは変わらなかった。

岩尾は湯呑みを置き、初めて口を開いた。

「時は金なり。あなたの課長さんの言う通りでした。わしが差し出した三十分。あの人は、三度断った。そして、あの娘さんの融資を、立場で踏みつけた。その三十分の値段が、この一千二百億です。」

「そんな…なんということだ。」

新行寺の膝が、重しを乗せられたかのように床に沈んだ。

翌日。銀行本店の大会議室で、緊急の事情聴取が開かれた。長机の中央に新行寺。その両脇に役員と監査部が並ぶ。呼び出された神木と九条は中央に立たされ、岩尾と岡田、そして被害当事者として千紘も同席していた。重い会議室の扉が閉まる音が、始まりの合図だった。

昨日まで支店で笑っていた二人は、ネクタイの結び目まで別人のように縮こまって見えた。

「支店長代理、神木竜二。並びに行員、九条。これより事実確認を行います。」

先に口を開いたのは、九条だった。

「失礼ながら申し上げます。私は神木課長の指示に従っただけです。『低所得の客に時間を使うな』『高齢者の年寄りは早めに切り上げろ』。当日の朝礼での号令です。業務指示のメールも残っています。全てログと数字で証明できます。」

「九条君! 昨日まで一緒になって笑っていただろうが!」

「わ、私は入行二年目です。上司の指示には逆らえません。」

「ふざけるな! 『見せしめは効率がいい』と言ったのは、お前も同じだろう!」

「そ、それは…記録に残っていない発言は、存在しないのと同じです。」

見苦しい醜態が続いた。互いに罪を押し付け合う二人を、役員たちは冷えるような目で見つめている。隣同士で笑い合っていた上司と部下が、保身のためだけに互いの喉元へ食らいつく。その光景そのものが、二人の人間性を何よりも雄弁に物語っていた。

やがて、監査部の男が静かに資料を掲げた。

「窓口の録画記録を確認しました。お二人の発言は、双方とも映像と音声に残っています。指示か否か以前に、あの言葉はそれぞれ、ご自身の口から出ています。」

逃げ道が、音を立てて塞がった。監査部員はさらに分厚いファイルを開く。

「合わせてご報告します。神木課長が十年前、回収担当時代に行った融資引き上げ案件について、行内調査の結果、複数の問題行為が確認されました。企業は、青い鉄工所。丸た県の持店。」

千紘が、弾かれたように顔を上げた。

展望工務店。父を追い詰め、会社を潰しかけ、家族を泣かせた、あの銀行。その担当者が、目の前のこの男だった。

千紘の視線に気づいた神木は、煩わしそうに眉を寄せた。

「こんな倒れかけた工務店、いちいち覚えてられません。」

会議室の空気が、完全に凍りついた。人生を変えられた側の娘の前で、変えた側は社名すらまともに覚えていなかった。あの父が、泣きながら頭を下げた相手は、この男だったのだ。

千紘の中で、点と点が冷たく繋がっていく。千紘は静かに立ち上がった。

「覚えてないんですね。あなたが潰しかけた会社の名前も、父があなたに何度も頭を下げたことも。」

「な…何ですか? 急に。」

「父は、死ぬまで銀行を悪く言いませんでした。『あの人たちにも事情がある』って。そんな父の会社を、あなたは『倒れかけた工務店』としか覚えていない。私たちには、覚えてもらえるような学歴も肩書きもありません。でも、守ってきた筋があります。私は、会社を大きくします。あなたが一生忘れられなくなるぐらいに、成長させてみせます。どうぞ、よく覚えておいてください。」

神木は、何も言い返せなかった。役員席のどこかで、小さく息を飲む音がした。

「課長。融資を盾にした一連の発言は、優越的地位の乱用にあたります。本件は、監査官長へ報告事案となります。」

そして新行寺は千紘へ向き直り、頭取の立場のまま、深々と腰を折った。

「望月社長。当行の人間が、お父様の代から二度までも、銀行として心よりお詫び申し上げます。」

頭取に頭を下げられても、千紘の表情は晴れなかった。欲しかったのは謝罪ではない。ただ、まっすぐに向き合って欲しかっただけなのだ。

同じ頃。昼のニュースが流れ始めていた。

「大手銀行の支店で、顧客への不適切対応か。一千二百億円規模の預金流出。」

初音町支店の窓口には、不安に駆られた客が朝から列を作っていた。

「私の預金、大丈夫なんでしょうね。」

「テレビで見たわよ。こんな銀行、もう預けておけない。解約します。」

窓口の行員が頭を下げ続けても、解約を申し出る声は、午後になっても止まらなかった。信頼という名の堤防は、一度亀裂が入れば、後は崩れるだけだった。

長い沈黙の後、新行寺が岩尾へ向き直り、深く頭を下げた。

「会長。当行の人間が、取り返しのつかないことをいたしました。一つだけお聞かせ願えませんか。なぜ、交渉の席も設けず、即時の解約を…」

岩尾はしばらく黙っていた。それから、遠い場所を見るような目で、ゆっくりと話し始めた。

「四十年前の雪の夜のことです。わしは銀行に融資を打ち切られましてな。手形の決済に追われて、五人の職人に頭を下げて辞めてもらった。産まれたばかりの子供を抱えた若い者もおりました。あいつらの顔は、今でも夢に見ます。」

会議室が静まり、誰も書類をめくる音さえ立てなかった。

「銀行が悪いというつもりはありません。決めたのはわしだ。背負うのもわしです。ただ、あの夜から決めとるんです。筋を通さない相手と、銭の付き合いはせんと。」

それは怒鳴り声ではなかった。だからこそ、その場の全員の胸に深く刺さった。

「うわ…私は、銀行のために数字を…」

その言い訳を拾う者は、もう誰もいなかった。

処分は迅速だった。神木竜二は懲戒解雇。さらに銀行は、信用毀損による損害の一部として、一億円規模の賠償を神木本人へ請求する方針を固めた。

数週間後、神木の名は業界の悪い噂となって駆け巡っていた。一千二百億を飛ばした男。最終面接の書類は、全て落とされた。かつて愛想を売っていた本店の後輩へ電話をかけても、二度と繋がらなかった。住宅ローンの支払いが滞り、自宅には売却の札が立った。妻は娘を連れて実家へ帰り、置き手紙一つ残さなかった。

安アパートの畳の上。求職活動の山を前に、神木は独り言のように呟いた。

「時は金なり。俺の時間は、もう一円にもならない。」

この日、三十分を惜しんで客を切り捨てた男には、もう誰にも必要とされていない時間だけが、無限に残されていた。

そして九条は、退職内定していた本店への栄転が白紙となり、彼が信奉した数字は、彼自身を真っ先に切り捨てた。人事記録に残ったのは、「一千二百億円流出時の窓口対応者」という、たった一行の数字だけだった。転職サイトに登録した彼の経歴は、どの企業の採用担当が見ても、その一行で止まった。

退職の日。誰も見送りに来ない通用口で、九条は曇った空を見上げて呟いた。

「俺の人生、まだこれからだってのに。」

初音町支店は、大口流出と連日の報道の連鎖で、収益は完全に崩壊した。皮肉にも、あの日店長が出席していた支店再編検討会議の席上で、初音町支店の統合・事実上の閉鎖が正式に決定した。残った行員たちは近隣の支店へ散り散りに再配置され、効率の名の下に客を選別した支店は、効率の論理によって地図から消えることになった。

最後の営業日。シャッターを下ろす行員の手は、小さく震えていたという。

数日後、本店の応接室。新行寺は、胆振千紘を改めて招いていた。

「望月社長。貴社への融資拒否は撤廃いたします。担当者の個人的な悪意による、不当な判断でした。改めて、最優遇の条件でご融資をお受けしたい。それから、十年前の件も、改めて正式に調査し、謝罪させていただきます。」

千紘は膝の上で拳を握り、深く息を吸った。ありがたい話だ。喉から手が出るほど資金は欲しい。給料日は目の前だ。頷けば、全てが楽になる。けれど、ここで頷いてしまったら、父と守ってきたものが嘘になってしまう気がした。

千紘は顔を上げ、静かに首を振った。

「ありがとうございます。お気持ちは、受け取ります。でも、筋を通さない相手と、お金の付き合いはできません。」

それは、岩尾が四十年抱き続けてきた誓いと、全く同じ意味の言葉だった。教えたわけではない。この娘は、自分の足で同じ場所へたどり着いたのだ。

隣で聞いていた岩尾の目が、ふっと細くなる。

「いい目だ。なら、嬢さん、うちと組まんか?」

「え?」

「下請けじゃない。対等のパートナーとしてだ。腕のいい職人が八人と、筋の通った社長が一人。うちのグループに、断る理由がどこにもない。」

「で、でも…うちみたいな小さな会社が…どうして、会長は私のこと…昨日会ったばかりで、何も…」

その時、岡田が一つの古い書類を千紘の前へ静かに差し出した。日付は十年前。下請け業者への送金記録だった。

「十年前、展望工務店の下請け業者への支払いを、匿名で肩代わりした記録です。差出人の欄をご覧ください。」

千紘の視線が、紙の上をゆっくりと滑り、一点で止まった。指先が、小さく震え始める。

「伊井グループ…じゃあ、あの時の…名前も告げずに助けてくれた方って…」

「年寄りの昔話だ。」

岩尾は照れたように目を逸らし、湯呑みへ手を伸ばした。千紘の頬を、大粒の涙が伝い落ちる。胸ポケットから取り出した父の印鑑を、千紘は両手で包むように額へ当てた。

「お父さん…名乗りもしなかった方は、会長だったよ。お父さんの会社の人に、やっと会えたよ。私、自慢できる経営者になるから。これからも、見てて。」

言葉にならない嗚咽が、応接室に響いた。やがて千紘が落ち着いた頃、新行寺が消え入るように顧客へ向き直った。

「会長。身勝手な願いとは承知の上で申し上げます。当行は、生まれ変わります。いつの日か、グループ様との取引を、再びご検討いただけないでしょうか?」

岩尾はゆっくりと立ち上がり、窓の外へ目をやった。それから、少しだけ笑った。

「肩書きでも実績でもなく、人を見る銀行に戻れたら。その時は、また和菓子の箱を持って伺いますよ。」

渡せなかった手土産の話だと気づいた新行寺は、誰よりも深く頭を下げた。窓から差し込む夕日が、泣き笑いの千紘と、不器用に笑う老人を静かに照らしていた。

数ヶ月後。シャッターの降りた初音町支店の前を、作業着の二人が通り過ぎていく。入口には「当店は忍辺銀行港支店に統合いたしました」の張り紙。かつて客を選別した支店の前で立ち止まる者は、もういない。二人もまた、足を止めることなく現場へと歩いていった。

展望工務店は、伊井グループの正式なパートナーとなった。職人を一人も切ることなく、創業以来過去最高の受注を更新し続けている。現場には活気が戻り、若い職人の声が朝から響くようになった。

「師匠、次の現場の段取り、見てもらえますか?」

「誰が師匠だ。わしはただの年寄りだと、何度言わせる。」

口ではそう言いながら、岩尾の足は嬉しそうに現場へ向かう。図面を覗き込む二つの背中を、展望工務店の古株の職人たちが目を細めて眺めていた。父が残した会社は、今確かに次の時代へ歩き出している。四十年前に守ってやれなかった五人の職人への、これがようやくの恩返しなのかもしれなかった。

よく晴れた日曜日。二人は妻の墓前に並んで線香を上げた。

「奥様、初めまして。ご報告です。私、師匠みたいな経営者になります。」

「百年早いわ。」

人知れず笑った後、岩尾は墓前へ向き直り、ゆっくりと語りかけた。

「時は金なりだがな、静。金で買い戻せん時もある。人と向き合う時間だ。わしはやっと、それを次に渡せる相手を見つけたよ。」

線香の煙が、まっすぐに青空へ立ち登っていく。墓石の前に添えられた和菓子の箱は、あの日銀行に渡せなかった桜の焼き印の包みと同じものだった。風が吹き、桜の若葉がサラサラと鳴る。

二つの作業着の背中は、どこから見ても、よく似た親子のようだった。

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