銀座の高級料亭「桐紋」の裏口。朝四時、発泡スチロールの箱を三段に積んだ旧式の自転車が、きしむ車輪の音とともに角を曲がってくる。痩せた背中の老人、海原蒼介、七十三歳。六十年間、毎朝欠かさず、この厨房に最高の魚を届け続けてきた、魚屋の「そうさん」だ. 「おお、今日も一番乗りっすね。そうさん」 「ああ、今日も桐紋さんに行くからな。中トロ、あの一番奥のやつをくれるか」 「あれ今朝の最上級ですよ。相変わらずすごい目利きだ」 「十三で漁村を出てから六十年。魚と職人の手ぁ見てこなかったからな」 中盤の魚屋は深く頭を下げる。安物のゴム長靴、すり切れた腕時計。誰の目にも町の隠居老人にしか映らない. だが、その目だけは別人のように鋭い. それは、この老人が銀座の高級料亭「桐紋」を支えてきた、最も重要な存在だからだ. 四十五年前の冬、若き料理人、仙代桐紋(本名・紀流員像)は、資金繰りに行き詰まり、店を畳む覚悟で頭を下げに来た. その時、まだ駆け出しの中盤だった蒼介は、自身の貯金と故郷の漁村を担保に借金を組み、その全てを「桐紋」に注ぎ込んだ. そして、毎朝自転車で銀座まで魚を運び続けた. それが店が黒字に転じるまで、丸三年、休まずにだ. 「げさん、あんたとの約束だけは四十五年経った。今もまだ守れてる」 家を出る前、台所で握り飯を渡してくれた妻、やえ子. 五十年前から連れ添った妻は、夫の生き方を全て理解した上で、なお毎朝送り出してくれる. それこそが、この老人にとって何よりの誇りだった. 裏口に到着すると、白い板前服を着込んだ若い板前、霧谷レが、いつものように頭を下げて出てくる. 中卒で住み込み修行に入って九年. 仙代桐紋が「百年に一人の逸材」と惚れ込んだ青年だ. 「坊主、今日はいいのが入ったぞ。中トロ,目玉も据わってる極上だ. 寝かせ加減には気をつけるんだぞ」 「はい。ありがたく使わせていただきます」 その時、店の表階から派手な笑い声が降ってきた. サングラスを頭に引っかけた男、二代目大将の桐紋せ矢(よしや)、四十二歳が、取引先の若手社長二人を連れて厨房に入ってくる. 派手な腕時計を回しながら、彼は言い放った. 「おお、ちょうど良かった. 見てくださいよこれ. うちの裏口名物、令和の不老者」取引先の社長たちが声を上げて笑う. せ矢は蒼介のすり切れた袖口を指でつまみ、見せつけるように引っ張る. 「このじいさん、六十年もうちに通ってるらしいんすけど、未だに自転車エコっつうか貧乏」へえ自転車今の時代にすごいですね、「親父の台からの腐ったやり方で残してあげてるんすよ」 霧谷の顔が一瞬で曇る. 蒼介は静かに霧谷の肩に手を置き、魚の入った箱を手渡し直した. だが、桐紋はSNS映えしないと箱を覗き込み、吐き捨てるように言った. 「シニアの目利きとか、もう令和には合わないんで,新時代についてきてもらわないとね」そして取引先を振り返り、肩をすくめた. 「こういう昔気質の人、扱いが難しいんすよ. 親父の残した宿題つうか」 蒼介は短く会釈すると、自転車へ向かった. 背中で霧谷が涙をこらえる音が聞こえていた. それでも七十三歳の老人は、背筋を伸ばし、静かに言った. 「坊主、明日もいいのを持ってくるからな」「はい,そうさん,お待ちしています」 その数日後、裏口にあったのは、いつもの若い板前ではなく、店の事務方の若い社員だった. 差し出されたのは一通の通告書. 「そうさん,すみません,大将からの通告で,来月から仕入れ単価を三割カットでお願いしたいと」「この値段でやれないなら,他の業者に切り替えるそうです」 唐突な値下げ圧力. 三割カットともなれば、魚そのものの質を落とすしかない. それは、仙代桐紋が生涯誇りにしてきた「銀座の最高峰」という看板を、二代目が自ら剥がしにかかっているのも同然だった. 蒼介は通告書を懐に静かに納め、「大将には考えさせてくれとお伝えください」とだけ返す. だが、裏口の奥から、わざと聞かせるように桐紋の声が響いてきた. 「おいおい,考えさせてくれだって. いやはや,シニアの返事って遅くて困るんですよね」「こういう営業方法はうちでは通用しないんで,決められないなら即終了で」 その時、半開きの引き戸の向こう、厨房の奥から、聞き慣れた青年の震える声が漏れてきた. 「お返しします. これは俺の刃ですから」桐紋が霧谷の柳刃包丁を取り上げ、笑いながら別の若手に放っているところだった. 「ちず君,お前は今日から皿洗いね. 包丁もう触らなくていいから」「仙台がお前を可愛ががってたのは知ってるけどさ,俺の店ではお前の包丁,邪魔なんでね」そして、調理台の隅の埃をかぶった木箱の上に、存在に放り投げた. … Read more