「お前のようなものが近づいていいものではない」——私は、会長の怒号と共に、その日のうちにクビを宣告された。触ってもいないのに。ただ、その部屋のピアノの前に立っていただけで。…
雨の日だった。運転手はピアノに触るな。その怒号が、豪邸の静寂を切り裂いた。 磨き上げられたグランドピアノの前で、若い運転手が立ち尽くしていた。 「申し訳ありません。でも、触ってはいませんので」 「同じことだ。お前のようなものが近づいていいものではない」 だが、家の春は許さなかった。大股で部屋を横切り、運転手の腕を掴んで引き剥がす。 「本当に申し訳ございません。お暇いたします。今日限りで」 「首だ。当然だ。約束を破った」 一礼して都口へ向かおうとした、その時だった。 「待って」 矢主の娘が、その前に立ちふさがり、父に向き直った。 「お父さん、聞いて。この人はね… 」 「なんだと?」 「まさか… ありえない」 誰も引かないのに、毎日磨かれ、調律されるピアノ。 この後、ただの運転手に、その封印は破られてしまうことになる。 やがてこの家に、鳴るはずのない音が鳴る。 たった1曲が、会長一家を慟哭させ、閉じ込められていた長い歳月が動き出す。 見下された運転手の指先が、全ての謎を解く鍵だった。 朝5時半。築40年のアパートの台所に、味噌汁の匂いが立っていた。 田村金出、30歳。都内の運転手派遣会社に務めて、今年で12年になる。 「ばあちゃん、味噌汁は俺が見るから、座ってなよ」 「いいの?あんたのお弁当だけは、私の仕事」 田村義子、78歳。小柄な背中を丸めて、卵焼きを巻いている。 金の育ての親であり、たった1人の家族だった。 「膝、まだ痛むんだろう」 「もう治ったから、大丈夫」 嘘だと金は思う。昨夜、台所で1人、膝を押さえていたのを見ていた。早く楽をさせてやらないと。 高校を出る時、進学の話も出た。成績は悪くなく、担任は惜しがった。だが家計を知っている金は、求人表の中から1番給料のいい道を選んだ。運転手派遣の会社に入り、21歳で2種免許を取ってからも、無事故無違反を通してきた。引き継いだ先が、役員送迎の専属運転手だった。 会社での評判は、少し変わっている。 「俺さ、田辺に雑談したこと一回もねえんだけど」 「ああ、俺も挨拶と引き継ぎの連絡だけ。多分お客さんともあんまり喋ってないんじゃねえの」 「そんで指名は営業所で1番って、なんかすげえよな」 車内で自分から話しかけない。聞かれれば短く答える。堀際の客に「次も君がいい」と言われても、金は理由が分からず頭を下げるだけの男だった。 その金に、ある朝、署長が声をかけた。 「明情ホールディングスの会長付きが空いた。先方のご指名。いや、指名というか… 何というか、『お宅で1番口の硬いのをよこしてくれ』とさ」 橋谷川誠一郎。新聞の経済面でしか見たことのない、財界の獣だった。 引き継ぎの日、定年を迎える仙台の運転手は、車の鍵を渡しながら妙なことを言った。 「いいか、田村君。あのオタクではな、『見ない、聞かない、触らない』。それさえ守れば、悪いオタクじゃない」 「触らない?」 「そうだ。そのうちわかる。いや、分からんままの方が幸せかもしれんな」 翌日、金は初めて長谷川の門をくぐった。手入れの行き届いた庭、磨き込まれた車寄せ。そして、これだけの豪邸に、人の営みの音が1つもしない。車の脇で待っていると、玄関から若い女性が出てきた。 「あの、新しい運転手さんですね。娘の美です。父が、その、気難しい人に見えるかもしれないんですけど、よろしくお願いします」 「はい」 ミオは小さく会釈して、玄関へ戻っていった。 その日の帰り道。バックミラーの中で遠ざかる屋敷を、金はもう1度だけ見た。大きな窓の奥で、夫人らしき人影が、黒く大きな何かを拭いている。昨日も今日も、おそらくは明日も、毎日磨かれ続けている。それが何なのか、金はまだ知らない。 会長付きの仕事は、ハンコで押したように始まった。朝7時50分、門の前に車をつける。8時ちょうどに玄関が開き、橋谷川誠一郎が出てくる。飴色のスーツに撫でつけた白髪。63歳という年齢を感じさせない切れ長の目だった。 「出してくれ」 「はい」 車内で誠一郎が口を開くことはほとんどない。だが行き先を告げる声は明瞭で、金の運転に注文をつけたことも1度もなかった。悪いオタクじゃない。仙台の言った通りだ。 見送りには、毎朝必ずかよが立つ。 「あなた、今日はお薬よ」 「分かっている。もう分かってらっしゃらないから、鞄に入れておきましたよ」 … Read more