「残高10円。介護施設はあちらです。」 銀行の窓口で、若い行員が私の妻にそう言い放った。私たちはただ、生まれたばかりのひ孫の口座を作りたかっただけなのに。妻は涙をこぼし、行員たちはせせら笑った。あの日、私は何も言わずに銀行を出た。でも、彼らは知らない。私が誰なのかを。そして翌朝、私は一通の書類を本部に送った。5000億円の解約申請書を。 コメントで続きを読む。
残高10円。介護施設はあちらです。 平日の昼下がり、銀行のロビーに若い行員の声が響き渡った。男は正談の席に座っていた老夫婦の襟元をつまみ上げるように立たせ、席から追い出した。 「次の正談まで時間がないんですよ。聞こえませんでしたか?介護施設はあちらですと言ったんです。」 年配の女性の頬を涙が一筋伝った。ただ孫の口座を一つ作りたい。そのささやかな願いが、邪魔な厄介だと面と向かって払いのけられたのだ。 「いやあ、社長、お待ちしておりました。さあどうぞ、こちらの席へ。」 脇へどかすなり、行員は手のひらを返したように、待っていた上客をもみ手で迎え入れる。若い行員たちは、地味な老人をどこにでもいる年寄りとしか見ていなかった。 「よくわかりました。」 「なんすか?強がっちゃって。」 せせら笑う行員たち。だが彼らは知らない。自分たちが今日追い出したその老人が、一体何者なのかを。 そして翌朝。 「5000億、解約します。」 「ご、5000億ですと?」 「う、嘘だろ。あの残高10円の客が。」 「なんでこんなことに?」 たった一人の老人の一言で、行員たちの世界が音を立てて崩れ始めた。老人の大切な存在を傷つけた傲慢な者たちは、代償を払って地獄を味わうことになる。 人生劇場。 朝の光が古い一軒家の縁側に差し込んでいた。高沢陣は、払いざらしのシャツにそれを着込む。78歳。すり減ったスニーカーに安物の老眼鏡。近所では散歩好きの好々爺で通っていて、誰もこの老人の日常を気に留めたりはしない。 台所から妻の静が湯飲みを二つ運んできた。 「あなた、お茶が入りましたよ。」 「ああ、ありがとう。」 二人は並んで腰を下ろす。連れ添って50年余り。肩の触れる距離が、そのまま歩んできた道だった。 陣の手元には古い通帳が一冊。紙はすり切れ、めくれば残高はたったの10円。暮らしが落ち着いた後、ほとんど使わなかった。それでも解約だけはせず、10円だけを始まりの証として残してきた。 「宮さんが言ってから、もう15年か。早いものだなあ。」 「まあ、またその話ですか。」 40年前。担保のない貧乏な医者に、どの銀行も金を貸そうとはしなかった。町の片隅に小さな診療所を開こうとした若き陣に、ただ一人手を差し伸べたのが、当時この町の銀行にいた宮浩という支店長だった。 「数字では測れないものがありましてね。高沢さん、あなたの目にはそれがある。私はそれを見込んだんですよ。」 この通帳は、宮が開いてくれた最初の口座のもの。恩を忘れるため、夫婦は今日まで残してきた。 「人の値打ちは通帳の数字じゃ測れない。宮さんが私に教えてくれたことだ。」 「ええ、よく存じておりますよ。」 静が湯飲みを両手で包む。その手がわずかに震えているのに、陣は気づいていた。 「ねえ、あなた。私、近頃耳が遠くて、迷惑をかけることが多くなってきたでしょう。だんだん厄介になっていくみたいで、それが怖いんですよ。」 陣は何も言わずに、妻の背中へ手を添えた。診療所を開いてからの40年、静はずっと受付で、弱った年寄りや心細い患者に寄り添ってきた。 「大丈夫。お前は厄介なんかじゃないよ。」 そこへ電話が鳴った。受話器を取った静の方が、誇らしげに明るくなる。 「まあ、本当に生まれたの?元気な子?そう。ああ、よかった。良かったね。」 初めてのひ孫だった。電話を置いた静の目尻に、涙がうっすらと光った。 「あなた、生まれたんですって。私たちのひ孫よ。」 「おお、そうか。とうとう私もひいじいさんか。」 「ねえ、お願いがあるの。あの子の口座を作ってやりたいんです。あの宮さんの銀行で。」 「あの銀行でかい?」 「ええ、あなたと私の始まりの場所でしょう。あの子の初めの一歩も、あの場所からなんて、縁起がいいじゃありませんか?」 「そうだな。よし、行こうか。二人で。」 その日の午後、夫婦は揃ってその銀行へ向かった。とうとう絆銀行という名を看板に掲げた町の銀行である。 自動ドアをくぐると、冷えた空気が二人を包んだ。順番を待つ人の列が入り口近くまで伸びている。その受付では、一人の年配の男性が若い行員に何か言われて、立ちつくしていた。 「番号札をお取りになってからでいいですか?」 「はい。はい。あちらです。あちら。」 言葉は丁寧でも、目は客をまるで見ていなかった。そこに若い女性行員が小走りに寄ってきた。名札に「桜井」とある。 「ご案内が遅れて申し訳ありません。番号順にお呼びしますので。」 桜井はただ目の前の客にまっすぐ頭を下げる。当たり前のはずのそれが、この銀行ではひどく珍しい光景だった。 番号札を握り、夫婦は長椅子に腰を下ろす。陣は胸ポケットの10円の通帳に指を触れた。40年前と同じ始まりの場所。だが、この銀行はあの頃とは何か違うように感じた。 連行掲示板に二人の番号が灯った。3番窓口。陣は静の手を取り立ち上がる。窓口に座っていたのは、先ほどロビーで老人をあしらっていたあの行員だった。画面に目を落としたまま、こちらを見ようともしない。デスクの端には「予定 14時 ご来店 重要案件」と赤ペンで書かれていた。 「お世話になります。ひ孫の口座を作りたいのですが。」 … Read more