「40年の退職金が、これですか?」 銀行の窓口で、若い行員が通帳をくるりと回して見せた。そこには「30円」の文字。40年、現場一筋で働いてきた俺への、最後の評価がこれだった。 「30円分の働きしかしてないってことですよ。」 行員は笑いながらそう言った。俺は何も言わず、ただ内ポケットの万年筆を握りしめた。師匠の言葉が蘇る。「人の値打ちは、勤続年数じゃ測れねえ」と。…
「全部で30円です。」 東洋精神銀行丸の内本店のロビー。若い行員が通帳の画面を客側へくるりと回した。 「ご確認ください。30円です。」 「もう一度確認していただけますか?」 「数え間違いはございません。規定通りの計算結果でございます。」 「40年の退職金がこれですか?」 「40年分のご勤続、誠にお疲れ様でございました。」 行員の声にはわずかに笑いが滲んでいた。老人は答えず、内ポケットの万年筆をそっと押さえた。亡き妻との約束と、師匠が残した一言を、40年抱えてきた男だった。 「いいでしょう。その規定とやらが、法の前でも通用するか確かめさせていただきます。」 「規定ですか?失礼ですが、ご不満を申し立てられるのは過剰反応というものですよ。40年で30円。それがお客様の値打ちでございますね。」 この時、若い行員はまだ知らない。自分が誰を怒らせたのかを。そして、この30円の裏に隠された罠が、やがて仕掛けた者たち自身を飲み込んでいくことを。 40年の意地をかけた老技術者の静かな反撃が、今始まる。 — 退職届に最後の一筆を置いた男がいた。男の名は江崎健一郎、62歳。紅葉正規株式会社で金属加工40年、技術部の一級技師として現場一筋に歩んできた。同期100名のうち、平社員のまま定年を迎えるのは健一郎ただ一人だった。 今日は健一郎の最終出勤日である。 「40年お世話になりました。」 声は小さかったが、はっきりとした口調だった。 「静、着いたよ。最後の一筆、お前にも見て欲しかったな。」 書斎の窓辺、銀色の遺影に向かって、健一郎は深く頭を下げた。5年前に胃がんで逝った妻。去年、57で亡くなった。 ペン先の感触が指先から肘へ抜けていく。40年前、東京大学法学部の研究室で師匠から手渡されたパーカーの万年筆である。直筆の漢字が軸の裏側に細かく刻まれていた。 書斎の壁一面に古びた書棚が立っていた。労働基準法解説の合本、判例集の閉じ込み、退職金制度に関する役所の切り抜き、退職金制度の合理性論争。色あせた本の一冊一冊に細かい付箋が貼られている。 書棚の下段の引き出しの中には、寄付金の領収書が束ねられていた。発行者は東京大学医学部胃がん研究室、寄付者は江崎静。その全てが、亡き妻・静の名で寄付されたものだった。 「お前の名前で医学部に届けておいたよ。お前との約束、守るからな。」 「俺はこの一本の万年筆と、この一着の作業着で40年勤めてきた。それで十分だった。」 机の引き出しから、健一郎は古びた便箋を一通取り出した。静が逝く一週間前に書き残した最後の手紙である。健一郎は一人で読み返していた。 「派手に使わないでね。質素に、静かにお願い。」 便箋の三行目に書かれたそれらの文字は、かすれていた。労働法と退職金制度の最高権威である健一郎が、数々の法的な議論を歴任しながらも、実質無償の活動を続けているのは、この妻の言葉があったからだ。 「わかったよ、静。」 健一郎は便箋を畳み、元の引き出しに戻した。そこへ机の脇の固定電話が鳴り始めたので、受話器を取る。 「もしもし。」 「けんちゃん、大野だ。」 紅葉正規営業部で金属加工40年。健一郎が「大野さん」と呼び、大野が「けんちゃん」と呼び合う同期の親友だ。 「退職金、いよいよ振り込み日だな。あんた、いつもの東洋精神銀行か?俺も明日午後一に丸の内本店に下ろしに行く。一緒にどうだ?うちのふさ子のこと、改めて相談したいことがあってな。」 大野の妻・ふさ子は手帳持ちの透析患者だ。ふさ子についての相談に乗ること自体は何のためらいもないが、退職金についてはそうもいかない。 「悪いな、大野さん。明日は俺一人で午前中に行く。金属加工40年の退職金が、本当に間違いないか確かめておきたいから。」 「さすが労働法のプロだな。分かった。けんちゃんに任せる。ふさ子さんのことも、ちゃんと考えてある。」 「ありがとな、けんちゃん。」 「いや、俺の方こそ。大野さん、40年付き合ってくれてありがとな。」 「明日午後一にロビーで会おう。」 「ああ、来てくれ。」 師匠の口癖が不意に蘇った。 「人の値打ちは、勤続年数じゃ測れねえ。」 東京大学法学部の退職金制度論ゼミで、師匠の高坂哲太郎が講義の最後に必ず口にしていた言葉だった。健一郎はその言葉を40年、胸に抱いて生きてきた。 健一郎は万年筆をそっと内ポケットに納めて立ち上がった。 「静、出してくる会社へ。」 タクシーを降りたマンションを出ると、空はよく晴れていた。健一郎は胸ポケットの万年筆の感触を、一度だけ指先で確かめた。 — 翌朝、東洋精神銀行の丸の内本店ロビーに、健一郎は一人で立っていた。法人窓口カウンターの一角で、霧山と主任は事務的な椅子に腰かけ、定型の挨拶を口にする。 紅葉正規株式会社で金属加工40年、技術部一級技師として定年退職を迎えた初日のことだった。 「お振り込み済みの退職金、振込手数料後の残高がこちらでございます。」 霧山は通帳の画面を客側へくるりと回した。 「ご確認ください。30円。」 画面の数字は確かに「30」と表示されていた。昨夜の振り込み履歴の右側に、桁を間違えたかのような数字が一つだけ残っている。 健一郎は数秒その数字を見つめ、ゆっくりと顔を上げた。 「もう一度、確認していただけますか?」 … Read more