「月収10万の貧乏人は、帰った方が身のためよ。」 銀座の高級フレンチの個室。医者の卵たちが集うその席で、私は名門医大出身の女医にそう言い放たれた。隣では、もう一人の女医が私の安物の腕時計を嘲笑うように眺めていた。私は何も言わず、静かにグラスを置いた。たった一言、月収10万だと正直に答えただけで、彼女たちは人を底辺の人間だと決めつけた。…
「月収10万の貧乏人は帰った方が身のためよ。」 銀座の高級フレンチの個室で、シャンパングラスを掲げた女がそう言い放った。隣の女がケタケタと耳障りな笑い声を響かせる。 「マジ受ける。派遣営業さんに高級レストランは早かったかな。」 吊るしのスーツを着た男は、反論もため息もなく、ただ静かにグラスを置いた。2人はその沈黙を負け犬の諦めだと思っていた。勘定を押し付け、挨拶もなく去っていくその背中を、嘲笑の目で見送った。 ――だが、翌日。 「皆様、ご紹介します。こちら、宮本誠一様。この病院の新しいオーナーでございます。」 「え、嘘だって。月収10万って……」 崩れ落ちる2人を前に、男は静かに告げた。 「ええ、いました。嘘はついてませんよ。ドルですけどね。」 見下されていたのは、彼女たちの頂点に立つ男だった。 朝の通用口を抜ける男の胸元で、ネームプレートの身分表示が揺れていた。色褪せた吊るしのスーツに、傷だらけの黒い営業鞄。手首の腕時計は量販店の安物だった。 男の名は宮本誠一。42歳。今日も医療機器メーカーの派遣営業として、武蔵の中央病院に超音波装置の納品を運んでいた。 「神聖メディテックさん、いつも早くから助かります。」 「いえ、配線まで含めてこちらでセッティングしておきますね。」 柔らかい受け答えに、若い看護師が表情を緩めて去っていった。誠一は納品の合間、廊下を歩く患者や看護師をさりげなく観察していた。誰がどんな顔で診察を待ち、どの医師がどんな声で患者に接するのか。ただの納品では決して見えてこないものがあった。 その時、ポケットでスマートフォンが震えた。同じ会社の営業課長で、高校からの親友、渡辺拓也だった。 「午後の呼吸器モニターの搬入、予定通りで頼む。それと、無理してないか?」 「無理も何も、納品してるだけだ。気楽なもんさ。」 「気楽ね。お前ほどの男がわざわざ派遣に潜り込んで、見たいものが本当にあるのか?」 「あるさ。外からしか見えないものが必ずある。親父の口癖でな。」 半年前に亡くなった父の声が、まだ耳の奥に残っている。 「人を肩書きで判断する奴は、患者のことも肩書きで判断する。」 医師だった父の遺言を守るため、誠一は堂々たる立場を離れ、派遣の職人まで頭を下げていた。 「お前のそういう生真面目なところ、昔から変わらないよ。まあ、もう少しの辛抱だ。せいぜい気楽な派遣さんでいろ。」 「ああ、今の俺はただの神聖メディテックの派遣社員、宮本だ。」 通話を切り、誠一は納品車のハンドルを握り直した。地味な派遣営業の顔の下に何があるのかを、この病院の誰もまだ知らなかった。 午前の検査が一段落した3階の廊下を、誠一は搬入を終えた台車を押しながら歩いていた。長椅子には診察を待つ患者が並び、消毒液の匂いとお茶の湯気が一緒に天井へ立ちのぼっている。ふと、長椅子の端で初老の男が一人、背を丸めて腹の辺りを押さえていた。油汗をかき、浅い呼吸を繰り返している。 「失礼します。加減が悪いんじゃありませんか?」 「いや、受付は済ませたんだが、呼ばれるまで待っててと言われてね。さっきから腹が痛くて。彼これ1時間かな。だんだん油汗が出てきてね。」 誠一は窓際から車椅子を一つ引き寄せると、男の傍に静かに寄せた。 「立てますか? 無理はなさらず。これに腰かけてください。背中、支えますから。」 「すまないね。あんた、ここの人かい?」 「ええ、ただの納品の業者です。でも、辛い時に身分は関係ありませんよ。」 男をそっと車椅子に座らせると、誠一は通りかかった看護師を呼び止め、痛みの強さと続いている時間を手短に伝えた。看護師は一瞬決まり悪そうな顔をして、男を診察室の方へ運んでいった。 患者を順番でしか見ない受付。気づいても足を止めない看護師。この病院の冷たさはどこから来ているんだろう――胸の内でその疑問が小さくくすぶった。 その時、廊下の奥からハイヒールの硬い音が二つ近づいてくる。誠一はさりげなく台車を壁際に寄せ、柱の影に身を引いた。白衣をなびかせて歩いてくるのは、二人の女医だった。先を行く長い髪の女が、高級腕時計を見せつけるように腕を組んでいる。 「ねえ、由香、今月の学会、また私が座長ですって。困っちゃう。優秀すぎるのも罪ね。」 後ろの茶髪の女が、新品のバッグを揺らして追従した。 「さすが沙織、呼吸器内科のエースだもの。私なんてまだまだ。」 呼吸器内科の医局長、北条沙織。33歳。名門医大卒であることを何より誇る女だった。隣で機嫌を取るのは、消化器内科の篠崎由香、31歳。院内では二人とも優秀な医師で通っていた。 そこへ、患者の付き添いらしい中年女性がおずおずと声をかけた。 「あの、北条先生。先ほどの母の検査結果のことでもう少し詳しいご説明をいただけませんか?」 「予約は取ってある? 私たち医者の時間がどれだけ貴重だと思ってるのかしら? いちいち噛み砕く暇はないの。」 「そこを、ほんの少しだけでも……」 「先生は午後もお忙しいんです。ご家族の方はもう少し湧きまえてくださらないと。」 二人は女性を置き去りにして、硬い靴音を響かせながら廊下の角を曲がっていった。残された女性が、行き場のない手を胸の前で握りしめている。柱の影から見ていた誠一は、ゆっくりと息を吐いた。 説明を求める家族を簡単に切り捨てるか。あれがこの病院の医師の顔とはな。声に出せない言葉が、口の中で苦く溶けた。父の言葉がまた胸をかすめる――人を肩書きで判断する奴は、患者のことも肩書きで判断する。 納品を片付け終えた頃、拓也からメールがあった。 『お疲れ。今夜急で悪いんだが、会合に付き合ってくれないか? 女が2人来るんだ。上位ね。』 『どこの病院の?』 『うちが担当してる武蔵の中央病院の先生方でな。前から付き合いのある先生に頼まれて組んだ席なんだ。』 … Read more