夕食を終えた実家の食卓で、スマホが震えた。画面に映ったのは、夫の健二からのメッセージ。「届いた?…

夕食を終えた実家の食卓で、スマホが震えた。画面に映ったのは、夫の健二からのメッセージ。「届いた?...

里帰り中の私に、夫の健二から即達で離婚届が送られてきた。携帯にメッセージが届いたのは、実家で両親と夕食を終えたばかりの時間だった。

「届いた? 離婚届け」

意味が分からず、すぐに電話をかけ直した。

「離婚届け? 何の話?」

「なんだよ、まだ届いてないのか。即達でも時間かかるもんだな」

「ねえ、本当に何の話? 離婚って」

「ああ、いや、そのことなんだけどさ。出産した女に魅力ないんだよね。正直、見るのもきつかったわ」

思わず言葉を失った。妊娠九ヶ月。臨月も近い。化粧をする余裕もなく、部屋着で過ごす日々が続いていた。それは事実だ。

「そうね。そんな余裕はないわ」

「そこなんだよ。俺はずっと女でいてほしいんだ。お前、最近化粧もしてないじゃん」

「それで意味が分からないんだけど」

「だから、俺の目はどうでもいいんだなって。俺からどう見られるかとか、世間でどう見られるかとか、そういうのどうでもよくなったってことだろ。すっぴんと寝巻きで歩いてるの、マジできつかったわ」

毎日必死でお腹の子を育てている最中に、夫からそんな言葉が飛んでくるとは思わなかった。確かに、妊娠してからはおしゃれをする余裕なんてなかった。でも、その理由を誰より知っているはずなのに。

「随分な言いようね。確かに、周りから見れば綺麗には見えなかったと思うわ。でも私、妊娠してるのよ。あなたの子供を」

「それがさ、妊娠してからお前のことを女として見れなくなったんだよね。なんか生理的に無理って言うか」

「はあ?」

「俺の両親も離婚してるんだけどさ、理由が『女として見れないから』だったんだよな。今なら親父の気持ちがよく分かるわ」

「最低な気持ちを理解しなくていいと思うんだけど」

「最低じゃなくて生理現象だって」

「それで何? 妊娠中のパートナーを見て無理になったから、離婚したいって言いたいわけ?」

「そう。離婚するのは当然だろ」

はあ、とため息が出た。こんな夫だったのか。思い込みが強くて上から目線で、結婚してからは自分が一番偉いとふんぞり返っていた。少し外見主義なところはあるなと感じてはいたが、まさか妊娠中にまでそんなことを言われるとは思わなかった。

「いいわ。書いてあげる。こんなこと言われて私も嫌だし」

「じゃあさっさと記入して送り返せよ。早くしないとお前が不利になるぞ」

「不利? なんでそうなるのよ」

「まあでもいいわ。あとはもう戻る場所ないぞ」

「なんでそうなるの?」

「だってあの家は俺の名義だからな」

「まあ、実家にいるから困らないけど。シングルマザーとか人生終わってんな」

「そうさせたあなたがそれを言うの? 言っておくけど、あなたは世間一般で言うと『妻子を捨てたクソ野郎』よ。自覚してる?」

「いやいや、捨てられる方が悪いんだって。母さんも言ってたな。父さんに捨てられた私が悪いって」

「普通そう思うはずなのに、あなたは反省しないんだ」

「反省するところが一ミリもないもん。それと、慰謝料とか請求してくんなよ。お前に魅力がなくなっただけなんだから、俺は悪くないし」

「慰謝料なんて請求するつもりないわよ。揉めたくないから」

「おいよ。離婚したら普通請求してくるかなって思ったけど、俺にはないからな。お前が勝手に太っただけだし」

「自分は悪くないって思ってるのに、慰謝料の心配をするって矛盾してるわよ。あなた、頭大丈夫?」

「俺はいたってまともだぜ。最近親父とも連絡取ってるんだけど、親父が言ってたんだ。女として見られないやつと一緒にいても未来はないって。まさにその通りだな」

「あのね、あなたが言う『最低な気持ち』を理解しなくていいのよ」

「それに子供もいらねえし、養育費も払う気ないから」

「なんですって? ちょっと待って、それとこれとは話が違うわよ」

「なんだよ、いきなり」

「離婚したら俺、持てるからすぐ次の相手見つかると思うんだよね。お前と違って俺は市場価値高いから。だから養育費払う暇とかねえの。普通に考えろよな」

「養育費は義務よ。あなたは父親なんだから」

「だから離婚して父親やめるんだよ。俺の親父だって養育費払ってなかったし。ま、お前も次の相手見つかるといいな。マザーじゃ難しいだろうけど」

「あのさ、ずっと気になってたんだけど、なんでこのタイミングで離婚なんて言ってきたの?」

「俺、ちゃんと計画立ててたから」

「計画?」

「俺の両親も離婚するとき結構揉めたんだよな。俺はそういうのは嫌だった。だから考えたんだ。お前が実家にいる間に離婚届を出せば何もできないだろう。里帰り中で身動き取れないもんな」

「だから妙に早く里帰りしろってせかしたのね」

「そういうこと。生まれるのは二ヶ月後だろ。まあまだ余裕あるし。離婚届くらい書けるじゃん」

「二ヶ月あれば弁護士だって雇えるのよ」

「好きにすればいいじゃん。俺も弁護士に相談したんだ。何もかも準備してたってわけ」

「あとさ、俺が先に離婚届を出せば有利になるって聞いたんだ」

「有利? 離婚届に先もないでしょ。書いて出すだけなんだし」

「先に記入した方が有利になるんだよ」

「何よそれ。それに離婚すればお前の貯金も半分くらい俺のものだよな。結婚してる間に貯めたんだから当然だろ。財産分与はしっかりするから、そこだけは時間かけていいぜ」

「法律詳しいんだ。夫婦の財産は共有だからな。法律くらい勉強しろよ」

「そっか。言いたいこと、それで全部?」

「ああ、正直ね、離婚には私も賛成だったの。私もあなたみたいな人とはもう関わりたくなかったし」

「はあ? 何? 強がり?」

「そうじゃないわ。まあいいけど。じゃあ離婚でいいじゃん。あなたって思い込みが激しくて上から目線で、結婚してからは自分が一番偉いってふんぞり返ってたわ。だから離婚して、この子のために養育費だけ支払わせて静かに終わらせようと思ってたのよ。慰謝料も請求するつもりはなかったわ。揉めたくなかったから」

「賢い判断じゃん」

「でもあなたはこの子に養育費すら払う気がないって言ったわよね。子供もいらない、教育費も払わないって」

「それが何だよ」

「その発言だけは絶対に許せない。あなたが私を捨てるのは勝手にすればいいわ。でもこの子まで見捨てるなんて、母親として絶対に許せないのよ。ふざけんじゃないわよ。最低限の責務を果たしなさいよ、このクズ男」

「はあ。急に切れんなよ。ヒステリックとかうざい」

「ああ、もういいわ」

「こんな女とは離婚してよかった。人生失敗したな。もっと賢く生きろよ」

そう言って一方的に通話は切れた。私は携帯を握りしめたまま、しばらく動けなかった。悔しさと悲しさが入り混じった感情が、お腹の子に伝わらないように、深く息を吐いた。

翌日、突然スマホに通知が届いた。見知らぬ番号からの電話だった。

「すみません。田中と申します。みささんのアカウントでお間違いないですか?」

「はい。そうですが、どちら様ですか?」

「健二さんの彼女です」

一瞬、耳を疑った。

「健二さんから離婚の話を聞きました。えっと、健二は私の夫ですが」

「知っています。でももう終わったんですよね。健二さんは私のことを本気で愛してくれています」

「はあ、そうですか」

「なので離婚してくださってありがとうございます。私たち本当に愛し合ってて。赤ちゃんのこと、大変でしょうけど頑張ってくださいね。健二さんは私が幸せにしますから」

まさか夫の浮気相手から直接連絡が来るとは。先に浮気されていたのは私の方だ。

「それは先制不告か何か? まさか彼女の方から連絡してくるなんて。浮気をしているとお花畑思考になるっていうのは、フィクションじゃないのね。ま、連絡する手間が省けて助かったわ」

「え? あの、私のこと知ってるんですか?」

「知っていますよ。二十六歳、営業事務。健二と同じ会社で九月頃から交際中。ああ、高裁判決って言うんですかね。浮気ですけど」

「交際です。私たちは真剣なんですよ。健二さん、奥さんとはもう冷めてるって言ってましたし」

「どんなことを言ってたんですか?」

「妊娠してから女として見れなくなったって言ってました。私の方が若いし、健二さんを幸せにできます。だから浮気とかじゃないんです。私、ちゃんと離婚されてからお付き合いしてるので」

「ええ、離婚してから。じゃあ一つ聞いてもいいですか? 健二はあなたに、離婚したら結婚するって言ってました?」

「当たり前じゃないですか? 離婚しないと結婚できませんし。離婚したとは聞いてたんですけど、揉めてるから結婚は少し待ってって言われてたんです」

「そっか。なるほどね。かわいそうに」

「イライラと負け惜しみですか? そっちの方がかわいそうですよ」

数日後、健二から離婚届が届いた。確かに彼の字だった。

「離婚届、届いたわ。確かにあなたの字ね。即達で送ったのに随分遅かったな」

「届いてたけど、確認に時間がかかったのよ」

「ああ、そうか。まあ届いたならいいや。お前もちゃんと書けよ」

「それはできないわ」

「は? おい、今更何だよ」

「せっかく送ってもらって悪いんだけど、この届け、無効なのよ。そもそも」

「何言ってるんだ? 意味分かんないんだけど」

「特に私、離婚してるし。私たち」

「は?」

「一ヶ月前に離婚届を出したの。一応役所に確認してきたんだけど、ちゃんと受理されてるわよ」

「は? ちょっと待て。どうなってんだ? 俺の同意なしに離婚なんてできるわけないだろ」

「あなたの同意、ちゃんとあるよ。忘れちゃったのね。でも私は覚えてるわ。三ヶ月前、あなたに浮気を指摘したら逆切れされて、『そんなに信じられないなら離婚届を書いてやるよ』って署名したの、覚えてない?」

「あ、あれは確かに書いたけど、でも俺、離婚届が入ったあの封筒はちゃんと捨てたはずだぞ」

「ああ、私の部屋に忍び込んで持ち出したやつね。中身、確認した?」

「いや、してないけど。でもお前、あの封筒に入れてただろ?」

「ええ、封筒には入れてたわ。どこにでもある普通の封筒に『離婚届』って書いて。まあ、誰が見ても分かるでしょうね」

「まさか、あの封筒からだったのか。というか偽物?」

「本物は別の場所に保管してたから、あなたが盗んだのはダミーってわけ。ご苦労様。ていうか、勝手に捨てるとかありえないからね。普通」

「くそ、はめやがったな」

「いや、そんな分かりやすく保管するわけないでしょ。ていうか、あなたも離婚するつもりだったのに、なんで離婚届を破棄したのか理解不能だわ」

「お前が勝手に出すと面倒だろ。浮気がバレて離婚されたなんて親戚の笑い者になるから。隠蔽できてない時に離婚されて大事になると困るから、離婚届は自分の都合で出したいんだよ」

「そう。でも俺が有利なのは変わらないぞ」

「はあ? 何言ってるの?」

「俺はちゃんと弁護士に相談したんだ。先に離婚届を出せば有利って言われたんだ」

「ああ、LINE法律事務所の門中弁護士よね。それ」

「ああ、なんで知ってるんだ?」

「私の大学の先輩なの。あなたの名刺が出てきたし、名前を見た瞬間、『ああ、よりによってこの人に相談しちゃった』ってちょっと同情しちゃった」

「は? 前にも言ったけど、先に離婚届を出せば有利なんてことはないのよ。ていうか、誰が出しても同じなの。だって紙を出すだけなんだし」

「嘘だろ。先に記入しておけば有利って」

「誰が先に書いたかなんて証明しようがないでしょ。あの先輩、口先でいいことを言う人だから、言い回しを勘違いしたのね。きっと『先に離婚届を出せば有利』じゃなくて『離婚の意思表示はちゃんとしろ』とでも言われたんじゃない?」

「それは……そんな言い方だったような」

「つまりあなたは有利どころか、ほぼ負け確定よ。詳しいことは弁護士から連絡が行くから。あとは弁護士とどうぞ。それじゃあね」

「ちょ、待てよ。話し合おう」

「話し合う? 何を? 今更じゃない? 言ったでしょ、私たちとっくに終わってるの」

「お前が勝手に終わらせたんだろ?」

「それは違うわね。あなた、散々私を罵倒したの忘れたの? スクロールしてみて。暴言のバーゲンセールよ」

「悪かったよ。色々。お前のことを馬鹿にして」

「あいや、そこはどうでもいいの。あなたに女として見られないと言われても、正直『ああ、そう』くらいにしかならないわ」

「ならなんで」

「私が許せないのは、あなたが『子供はいらない。養育費を払わない』って言ったからよ。私はね、あなたと関わり合いたくなかったから慰謝料なんていらなかった。でも子供は違うわ。あなた分かってる? 養育費を払わないって言うのは、親であることの否定なのよ。あなたはそれを軽々しく口にした。その時点で、話し合う価値はなくなったの。そんなあなたには、私が受けた傷を全てちゃんと返してもらうから。覚悟しててね」

一週間後、健二から電話がかかってきた。

「なんだよ。ああ、内容証明届いた」

「ちゃんと確認してね。弁護士さんに即達で送ってもらうよう頼んでおいたのよ」

「こんなの認めねえぞ」

「あら、もう確認したの。早いわね。でもあなたが何を言っても、そこに書いてあることは事実よ。離婚届は一ヶ月前に受理済み。浮気の証拠も、資料に入ってるでしょう。ホテルの領収書にLINEのスクショ、あと探偵さんにお願いして手に入れた写真。それだけあれば十分だし」

「請求内容は見たわよね。こんなのぼったくりじゃねえか」

「あら、そうかしら。慰謝料三百万円に、さらに養育費月五万円ってだけよ。三百万は確かに相場より少し多いけれど、妊娠中の浮気ってことで高いってだけ。拒否した場合は給料差し押さえで強制執行するから」

「嘘だろ。ていうかなんだよ、この証拠。お前、全部知ってたのかよ。浮気は疑いだけじゃなかったのか?」

「知ってたわよ。だからあなたに罵倒されても傷つかなかったの。だってそれ以上の傷を、すでに負っていたから。浮気してるって知って、どれだけショックだったか。まあ、あなたには分からないでしょうね」

「ああ」

「あとそれとは別に、住宅の頭金一千万円の返還も請求するから」

「はあ? なんで?」

「だってあの家はあなたのものでしょ? なら私が出した頭金は、貸したことになるじゃない。離婚して私を追い出すんだから、返してもらうのが当然よ。自分でそうしたんだから、自業自得ね」

翌日、今度は健二の彼女が実家に突撃してきた。母が追い返そうとしたが、どうしてもと言って聞かなかったらしい。

「みささん、まさか私の実家に突撃してくるとは思いませんでした。母が追い返したそうですが、どうして実家の住所を知ってるのかしら?」

「健二さんから聞きました。LINEじゃなくて直接話をさせてください」

「そのためにわざわざ来たの? ご苦労様。それから、こちらには話すことは何もないのだけど」

「あなたのやってることは間違ってます。言いがかりです。なんで私が慰謝料を払わないといけないんですか? もう離婚してるはずでしょ?」

「ええ、離婚はしましたね」

「だったら慰謝料とか請求するのおかしくないですか?」

「おかしい? どうして?」

「健二さん、奥さんとはもう終わってたって言ってたんです。奥さんが妊娠して健二さんが冷めたって」

「そもそも浮気の定義って何か知ってますか?」

「え?」

「婚姻関係にある人が、他の人と関係を持つことを言うんです。でも仮に、気持ちが冷めていたから浮気じゃないという主張が通るとしましょう。私が妊娠したのは去年の十二月ですよ。でもあなたと健二が付き合い始めたのは去年の九月。あれ? 時系列、おかしくないですか?」

「は?」

「私が妊娠する前から、あなたたち付き合ってましたよね。『妊娠して冷めた』って、嘘じゃない?」

「そんな」

「健二の言うこと全部信じてたの? かわいそうに。ちゃんと考えれば分かることよ。でもそうね、かわいそうなあなたに現実を見せてあげる。あなた以外にも女がいたわよ。二人も浮気相手がね」

「嘘……そんなの信じない」

「はい。これ、証拠ね。探偵に依頼したの。そうしたら出るわ出るわ。この写真の女性、見覚えない? 同じ会社の人事部の人でしょ。こっちは取引先の女性に『離婚する』って言ってたみたい」

「そんな……私だけだと思ってた」

「まあ、私に連絡してきた人はあなただけだったわ。あなたはどこかで、私から夫を奪ったと思って優越感に浸っていたのでしょう。でも残念。あなたは私が捨てたゴミを拾っただけよ」

「ゴミ?」

「ええ、ゴミ。妊娠中の妻を捨てる男なんて、ゴミでしょ。そのゴミ、あなたにあげるわ。おめでとう。あ、でも慰謝料はきっちり払ってもらうけどね」

「こんなのひどすぎる」

「ひどい? 妊娠中の女性から夫を奪おうとしたあなたが言うの? 自分から先制不告してきたんだから、ボコボコにされる覚悟くらいあるでしょ」

数日後、健二からまた電話がかかってきた。今度は声が震えていた。

「待ってくれ。話し合おう。みさ、俺が間違ってた。両親のことで俺もトラウマがあって、あの時言ったことは本気じゃなかったんだ。養育費も払う。慰謝料も考える。だから裁判だけは勘弁してくれよ」

「あら、払うには払うけど、裁判になって会社にバレるのが嫌なのね。本当どこまでも自分勝手ね。でも払ってくれるならいいわよ」

「それで本当か? 助かるよ」

「それじゃあ、全額一括で支払ってね」

「は?」

「当たり前じゃない? 私はもうあなたと関わり合いたくないの。養育費も慰謝料も全部一括で払ってくれたら、もう連絡しなくて済むし」

「うっ……そんな大金、払えないって。毎月ちゃんと支払うから」

「そう言ってあなたは逃げるでしょう。私、あなたのこと信じてないの。信じられるわけない。だから給料差し押さえの手続きを取ろうとしてるのよ」

「待ってくれよ。許してくれ。本当だ、金もちゃんと払うから」

「今更遅いのよ。全部、あなたが自分で巻いた種よ。自分から話し合いの機会を台無しにしたの。自業自得よ」

同時刻、健二と浮気相手の間でも激しい言い争いが起きていたという。

「お前のせいで全部ダメになった。どうしてくれるんだよ」

「はあ? あなたが『離婚する。奥さんとはうまくいってない』って嘘をついたんでしょ。しかも他にも女がいるって知ってるのよ。私を都合のいい女にしてたくせに」

「都合のいい女? お前が勝手に突っかかってきたんだろ」

「なんですって? 最低。あなたなんか知らない。私だって慰謝料を請求されてるのよ。あんたのせいなんだから、あんたが払ってよ」

「なんでお前なんかのために払うんだよ。ふざけんな」

数日後、また健二から電話がかかってきた。今度は泣きそうな声だった。

「みさ、勘弁してくれよ。会社の上司に呼び出された。お前のせいで、ラン建設との取引が危ないって」

「ええ、そうなんだ」

「それで……お前の元嫁の実家だろ。先方から『俺とは仕事をしたくない』と言われてるって。こんなの会社都合だろ。さすがにやりすぎだって」

「離婚したからそうなったわけじゃないわ」

「は?」

「あなたが『妻子を捨てる』ようなことを平気で言ったからよ。そんなことを言う人と仕事をしたいと思う人はいないでしょ。もちろんコンプライアンス的にもね。証拠としてLINEのスクショも提示してるわ。あなたの上司も納得したから、あなたに話をしたんでしょ」

「で、注意されたくらいで泣きつかないでくれない? 営業から総務に移動になったんだよ。減給もあるって。『会社に損害を出す前に大人しくしろ』なんて言われて、職場でもみんなの目が冷たいんだ」

「そりゃそうでしょうね。妊婦を捨てた最低男なんて、陰口を叩かれるに決まってるでしょう。取引先もあなたを避けるようになったんじゃない?」

「頼むから、お父さんに取引停止だけはしないでくれって言ってくれよ」

「取引停止を決めたのは、社長としての父の判断よ。私じゃどうしようもできないわ。ああ、あなたのことが大好きだった彼女さんも、今頃同じような目に遭ってるかもね。まあ、どちらも自業自得よ」

二週間後、健二から最後の電話がかかってきた。

「みさ、頼む。話を聞いてくれ。俺が間違ってた。本当に間違ってた。仕事も左遷されて金もなくて、もう限界なんだ。家だって、このままじゃ維持できない。少しだけ慰謝料を減額できないか。養育費は払う。ちゃんと払うから。俺たち、一緒にいた時間もあっただろう。その頃のことを思い出して、頼むよ」

「健二、もう終わったわよ。あなた、私に『出産した女には魅力がない』『養育費も払わない』って言ったわよね。その時点で、あなたは父親でも夫でもなくなったのよ。一緒にいた時間、それを全部踏みにじったのは、あなたよ」

「みさ……」

「あなたが私にしたこと、この子にしようとしたこと。私は一生忘れない。二度と連絡してこないで。でも最後に、あなたが私に言った言葉をそっくりそのまま返すわ。人生失敗したね。ざまあみろ」

その後、健二は慰謝料三百万円と住宅ローン頭金一千万円を請求され、そんな金額を払えるわけもなく、家を手放すことになった。養育費も裁判で確定し、給料差し押さえで毎月の支払いに追われる日々。浮気相手二人からも慰謝料請求の訴訟を受け、総額五百万円以上の支払い義務が発生したという。しかも浮気相手の一人が「結婚を前提に交際していた」として、結婚詐欺の疑いで警察に相談したそうで、健二は完全に追い詰められていると聞いた。他の浮気相手には証拠を渡しておいてよかった。ちなみに彼女たちには慰謝料を請求していない。浮気をしていると知らなかったこと、知った時に誠実に対応してくれたこと、浮気の証拠をくれたことが大きな理由だ。

健二の元彼女には慰謝料を請求した。慰謝料二百万円の支払いに追われ、会社でも噂が立ち、居場所をなくして退職。実家にも帰れず、完全に孤立しているらしい。

一方、私は実家のサポートを受けながら、元気な女の子を出産した。育休明けには職場に復帰し、両親や友人に囲まれて穏やかに暮らしている。あの時、冷静に準備しておいて本当に良かった。散々馬鹿にされたけれど、私は妊娠中の大きなお腹を愛おしく感じていた。ずっと我が子を感じられるあの瞬間は、きっと当事者にしか分からない大切な時間だ。今は娘と過ごす時間も愛おしく、この子を幸せにするのが、今の私の目標だ。

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