昼休みに妻の顔を見て、ふと思ったんだ。「もう離婚しないか」って。十八年、寝たきりの両親の介護をしてきた妻に、私はそう切り出した。母から軽井沢の別荘を譲るという電話をもらった直後のことだった。「介護ご苦労さん。もうお前は不要なんだよ」。妻は唇を震わせて、「約束は?…

昼休みに妻の顔を見て、ふと思ったんだ。「もう離婚しないか」って。十八年、寝たきりの両親の介護をしてきた妻に、私はそう切り出した。母から軽井沢の別荘を譲るという電話をもらった直後のことだった。「介護ご苦労さん。もうお前は不要なんだよ」。妻は唇を震わせて、「約束は?...

健二は昼休みの電話で、母から聞いた話を妻のかよ子に切り出した。軽井沢の別荘を両親が譲ってくれるという。十八年間続けてきた介護への感謝の気持ちだと言う。

「お母さんたち、本当に優しいよね」

かよ子が微笑むと、健二は妙に冷静な口調で言った。

「それさ、聞いた時に思ったんだ。俺たち、もう離婚しないか」

かよ子の手が止まった。「冗談でしょ」

「十八年間の介護はお疲れ様。感謝もしてる。けど、それができたのは俺が働いて生活費を稼いでたからだろ」

「私だって介護しながらパートもしてたわよ」

「小遣い稼ぎにしかなってないだろう」

かよ子は唇を震わせた。「そんな言い方、ひどすぎない?」

「こっちは仕事して金を稼いでお前を支えてきた。もういいんじゃないか。この機会に俺も自由になってもいいだろう」

「お母さんたちの介護はどうする気?」

「母さんが言ってたろ。今後はヘルパーを頼るって。俺がすることは、たまに顔を出して様子を見るだけだ。そんなのは俺一人でもできる。お前はもう不要なんだよ」

かよ子は声を詰まらせながら言った。「約束は? ずっとしてきた約束はどうなるの?」

「約束?」

「介護が終わって健二が定年退職したら、二人でゆっくり過ごそうって言ってくれてたじゃない」

「ああ、そんなことも言ったな」

「お母さんたちだって、そのために別荘をくれるんでしょ?」

「俺は考えてるって言っただけだ。検討してただけで、必ずそうすると言った覚えはない」

「検討に検討を重ねて、結論を急いだだけなの? どこの政治家よ」

「かよ子さ、お前、自分の顔を見て同じことが言えるか?」

「え?」

「今のお前は介護とパートの疲れでボロボロだ。はっきり言って、一緒に歩くのも辛いんだよ」

「それは時間がなくて……」

「一方、俺は今もビジネスマンとして最前線で働いてる。見た目にも気を使ったイケおじってやつだ」

「自分で言うの、それ」

「お前の見た目も、腰が痛いとか言うババアっぽい言動も、全てが限界だ。無理。嫁として見れない」

健二はため息をついて、最後に言い放った。

「そういうことだから、離婚して出ていけ。十八年間、介護ご苦労さん。うちを出ていっても元気でな」

翌日、健二が昼休憩に入ると、母から電話がかかってきた。

「健二、これは一体どういうこと?」

「なんだよ、母さん。せっかくの昼休憩だってのに」

「さっきかよ子さんから聞きました。離婚するんだって。どうして昨日のうちに言わなかったの?」

「かよ子も整理する時間が必要だろうと思ってな。気を利かせたんだよ」

「そういうことだから、じゃないわよ。あんた、正気なの?」

「しっかりと考えて決めたことだ。これは俺たち夫婦の問題だぞ。母さんが口を挟むことじゃないだろう」

「こんな追い出すような形で離婚なんて、あんまりよ。今までどれだけかよ子さんに苦労をかけてきたか、あんた本当に分かってるの?」

「苦労をかけてきたのは母さんたちだろう。俺じゃない」

「よくそんな白々しいことが言えるわね。親の介護を十八年もかよ子さんに押し付けておいて」

「だからそれは母さんたちのせいだろう。介護が必要になったのは俺のせいじゃないんだから」

「あんたね、私が言えた義理じゃないけど、介護は本来子供のすることでしょう。かよ子さんはあんたの嫁だったんだ。嫁が代わりにやって何の問題がある?」

「その代わりにやってきてくれた嫁に対して、この仕打ちはあんまりだって言ってるの」

「母さん、興奮しすぎだ。体に響くぞ」

「誰のせいだと思ってんのよ。恩をあだで返すような真似、私は許しませんからね」

「ベッドで寝たきりの母さんに何ができるって言うんだ。これは母さんが心配するようなことじゃない」

「今後の介護だってヘルパーを頼るんだろう。かよ子さんの負担を減らしたくてそう決めたのよ」

「つまり、かよ子がいなくても問題ないってことだろ。そういうことだ」

「そういう問題じゃないでしょ」

「そういう問題だよ。てか、そんなことよりもさ、軽井沢の別荘の件、昨日言ってたのは本当だよな。生前贈与で譲ってくれるんだろ。名義はもちろん俺だよな。親父も母さんもそう言ってたよな」

「確かに言ったわね」

「あの時の言葉に嘘はないよな」

「ないわよ」

「ならいいんだよ。母さんたちが約束を守ってくれるなら、俺も努力する。かよ子がいなくても不自由はさせないさ」

「健二、あんたは……」

「もういいわ。納得してくれたなら話が早い。今度、人を連れて行くよ」

「連れて行くって、誰を?」

「うちに母さんと親父に合わせたい人がいるんだ。楽しみにしといてくれ」

数日後、かよ子が離婚届を出してきた。健二は軽い口調で言った。

「ようやくか。これで俺とお前は晴れて他人ってことだな」

「熟年離婚だからね。うちの親も驚いてたわ」

「お前、今は実家にいるんだっけ?」

「出ていけって言ったのはそっちでしょ」

「そうだったな」

かよ子は一つ深呼吸をしてから言った。

「健二、最後に一つだけ聞いてもいい?」

「なんだよ、今更。財産分与とかなら弁護士通してくれ」

「そうじゃないの。どうしても確認したいことがあって」

かよ子は昔の話を始めた。まだ介護に慣れていなかった頃、お母さんを移動させようとして落としてしまい、怪我をさせたことがあった。大した怪我でもなかったのに、親戚連中が騒ぎ立てた。その時、健二はかよ子をかばって言ってくれた。

「俺の嫁に文句があるなら、俺に言え」

「あの時は本当に嬉しかった。あれ以来、親戚の方は何も言ってこなくなったし、私も今まで以上に介護を頑張ろうと思えた」

「そんなことも言ったっけな。懐かしいわ」

「その時の言葉と、老後の約束。その二つを頼りに、私は十八年間、辛くても頑張れた。あの時の言葉は嘘だったの?」

健二は少し間を置いてから言った。

「あのな、かよ子。俺は本心からあの言葉を言った。それは間違いない。介護も手伝わないくせに外からごちゃごちゃ言う連中に、俺の嫁が頑張ってるんだろう、黙ってろってな。そうだったんだけどなあ。あれからもう十年以上経ってんだぞ」

「そうね。その間にお前はどうなった? 介護だのパートだのでボロボロのボロ雑巾。女ってか、妖怪の類いだろう」

「そこまで言わなくてもいいじゃない」

「俺さ、これでも結構モテるんだよ。イケおじって若い子の評判も良くてさ。お誘いを受けることもあるわけ」

「お誘い?」

「そういうのを経験して気づいたんだよな。お前みたいなババアと一緒にいるのは人生の損失。時間の無駄ってさ」

「損失? 時間の無駄?」

「へえ、そうなんだ。あの時の言葉は本心だったけど、それももう過去のこと。今じゃ賞味期限切れのゴミなんだよ」

「なるほどね。よくわかったわ」

「お前もいつまでも過去にすがりついてないで、未来を生きろよ。俺に捨てられてお前に未来とかあるか知らんけど」

「ありがとう。最後にあなたの本心が聞けてよかった。これで私も未来を生きることができるわ」

「納得できたなら良かったんじゃないか」

「でも、少し寂しいわね」

「何が」

「私には、あなたの同僚の佐藤さん夫婦みたいな、夫婦としての将来を語る時間がもうないんだなって」

「佐藤? ああ、あいつの奥さんと仲いいんだっけ?」

「私たちもあんなふうに笑顔で老後の話をしたかったわ」

「もうそんな未来は来ねえよ。じゃあこれでさよならだ。二度と連絡してくんなよ」

二週間後、かよ子から電話がかかってきた。

「健二、大事な話があります」

「はあ? 大事な話? てか、二度と連絡してくんなって言ったよな。こっちは今、引っ越しで忙しいんだよ」

「引っ越し? ああ、軽井沢の別荘ね。お母さんたちの介護もヘルパーを用意したし、これでようやく俺も動けるってわけだ」

「なるほどね。そんな楽しい気分のところにごめんね」

「本当だよ。水を差すなよな」

「大事な話なんだけど、後で弁護士から正式に連絡が行くと思うけど、あなたに慰謝料を請求します」

「はあ? 慰謝料? なんでだよ。俺たち、円満夫婦だっただろう?」

「あれを円満だって言うなら、世の中円満離婚だらけよ。それにあなたは爪が甘いのよ」

「爪が甘い? 一体どういうことだ?」

「お母さんから聞きました。私と離婚してすぐ、若い女性を紹介したそうね」

「母さんから? お前ら、まだ連絡とか取ってたのかよ」

「離婚してもう終わったと油断したわね。私からしたら、やった、助かりますって感じだったけど。舞衣さんだっけ? 再婚するのよね」

「そうだよ。舞衣とは再婚する気だ。もうお前には関係ない話だろう。俺たちは離婚したんだから」

「もちろん関係ないわ」

「だよな。ならなんで慰謝料なんて」

「舞衣さんとの関係が、私と結婚中からのものじゃなかったら、って話はつくけどね」

「呆れた。女特有の嫉妬か。俺が他の女と再婚するのが気に食わないんだろう」

「違いますね」

「じゃあ適当なこと言うなよ」

「証拠ならあります。あなた、自分で言ってたわよね。俺はモテるんだ、お誘いを受けることもあるって。それが何だって言うんだよ、そんなの証拠扱いとかガキの探偵ごっこか。加えて、私と離婚してすぐに親に紹介した。ここまで状況が揃ってたら、疑うなって方が無理でしょう」

「で? 証拠もなしに慰謝料とか言ってんのか」

「興信所に依頼して、あなたたちの関係を洗いました。それと、佐藤さんの奥さんに頼んで情報ももらったわ。佐藤さん自身も疑ってたそうよ。部下と上司の割に距離が近いなって」

「佐藤? あいつ、そんなこと思ってたのかよ」

「ここまで情報があれば、調査も早かったわね。私に介護を押し付けて、五年も不倫してたのね」

「楽しかったなあ」

「何が?」

「引っ越しのために家具を注文したんだ。来週には他の家電と一緒に別荘へ送られてくる。軽井沢の別荘に合ういい家具や家電をって、色々と盛り上がってさ」

「来週引っ越しなの? おめでとう。で、それが何か?」

「これから新しい人生を送ろうとしてるんだ。そこに慰謝料なんて、こっちの迷惑を考えてくれよ」

「私は十八年間も介護して捨てられましたよ。あなたこそ、こっちの迷惑を考えなさいよ」

「そうは言うけどさ、それはもう終わったことだろう」

「終わってないから慰謝料を請求できるのよ。介護を押し付けていた状況や、五年という期間の長さ。それらを勘案して、慰謝料は二百万だそうです」

「二百万? 冗談やめろよ。今からでも考え直せって」

「これは検討に検討を重ねた結果です。検討だけして結論を出さないあなたや政治家と違って、私は結論を出したのよ」

「だからって、こんなのないだろう」

「残念ながら、あなたの不倫という事実はまだ賞味期限が切れてなかったのよ。わめく暇があったら、きっちりと払いなさいね」

一週間後、健二は軽井沢の別荘に来ていた。いい天気だった。

「いやあ、今日はいい天気だわ。これぞ引っ越し日和ってな」

そこへかよ子が現れた。

「二度と連絡してくるなって言ってたのに。何?」

「まあまあ、そう言うなよ。俺は今日すこぶる機嫌がいいんだからさ」

「それはおめでとう。で、何? 引っ越し? そういえば今週引っ越しだって言ってたわね」

「そう、軽井沢の別荘への引っ越し当日だ。それはいいけど、慰謝料はちゃんと払ってくださいね」

「余裕余裕。あれだけごねておいて。この口調、どういう心境の変化?」

「お前から慰謝料二百万って言われた時は動揺したけど、後で母さんと話し合って思ったんだよ」

「何を?」

「十八年間の介護費用と、軽井沢の別荘代。それがコミで二百万なら、むしろ安いだろってな」

「十八年の介護代まで入れてくるんだ。ここまで来ると、一周回って笑えてくるわ」

「冗談はよせ。俺が幸せになるのが悔しいんだろ」

「そうかもね。どれだけ文句言っても、時間は帰ってこないぞ。俺を妬む暇があるなら、自分の人生頑張れよ」

「そうね。本当にそうだわ」

「そういうわけだから、慰謝料くらいは払ってやるよ。よかったな」

「やっぱりあなたって爪が甘いわよね」

「はあ、またそれかよ。一体何が甘いってんだ」

「すぐに分かるわ」

「いい年して負け惜しみとか恥ずかしい女だな。こんな女とは離婚して正解だった」

「そうね。私もあなたと離婚して正解だったって思ってるわよ」

「はいはい、そうですか。じゃあ俺は早速別荘の中へ」

健二は鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。だが、鍵はまわらない。

「あれ? どうしたの?」

「いや、鍵が入んなくて」

「あら、大変」

「いやいやいや、何の冗談だよ。スペアキーも全滅だ。なんで?」

「そりゃそうよ」

「どういうことだ? お前、何か知ってんのか?」

「防犯のために鍵を変えたんだもの」

「はあ? 防犯? 人の家に何勝手なことしてくれてんだ」

「勝手じゃないわよ」

「勝手だろ。ここは俺の家だぞ」

「その別荘の名義人は私です」

十分後、健二は母に電話をしていた。

「母さん、これは一体どういうことだ? かよ子が別荘は自分名義とか言ってるぞ」

「事実なんだからしょうがないでしょ」

「事実? そんなの、おかしいだろう。生前贈与で私とお父さんがかよ子さんに譲ったのよ。何もおかしいところなんてないわ」

「母さんも親父も言ってたよな。別荘の名義人は俺にするって。あれは嘘だったのかよ」

「嘘じゃありません。あんた、自分で確認してきたじゃない。ならこれはどういうことなんだ?」

「あの時は本当にあなたを名義にする気だったわ。けど、状況が変わったの」

「状況が変わった? あんた、かよ子さんと離婚したじゃない」

「それが何だって言うんだよ。そんなの関係ないだろう」

「関係大ありよ、このバカ息子。そもそも、なんで別荘を譲ることにしたと思ってるの?」

「そりゃ、十八年間の介護への恩返しだろ」

「そうね。そう言いました。だから、あんたじゃなくてかよ子さんに譲ったのよ」

「はあ? かよ子の介護を支えたのは俺だぞ」

「実際に介護してくれたのはかよ子さんよ。あんたから介護されたことなんて、一度もありません」

「だから、その介護ができたのは俺のおかげだろう。俺が稼いでたから安心して介護できたんだ」

「稼いでたから? 冗談もほどほどにしてほしいわ。外で稼いでたら、嫁に介護を押し付けて不倫していいの? 十八年間のかよ子さんの献身を踏みにじっていいの?」

「それは……」

「かよ子さんがどれだけ苦労してきたか、あんたは何十年も夫だったのに全く理解してない」

「してないってことはないだろう。俺だって、離婚する前に感謝くらいしたし」

「十八年間介護ご苦労さん、だったかしら?」

「そうそう。ほら、ちゃんと挨拶だって」

「かよ子さんが私にそのことを見せてくれた時、スマホを叩き割りたくなったわよ」

「叩き割りたい? え?」

「一方的にかよ子さんを捨てておいて、ご苦労さん? あんたには人の心ってもんがないの?」

「そっちだって人の心とかないのか? 引っ越ししてきたんだぞ。家具も買った。家電も買った。それだってもう少しでこっちに着くんだ」

「だから、それが何?」

「何じゃないだろう。業者も家具も家電もただじゃないんだぞ。これ、どうするんだよ」

「十八年間の介護だってただじゃないわよ」

「いや、それはかよ子は俺の嫁だったし」

「かよ子さんがしてきたことをヘルパーに頼んだら、いくらかかる? 慰謝料二百万払ったら、たった二百万ぽっちで済むわけないでしょうが。あの子が私を車椅子ごと落としちゃった時、あの子は私に泣いて謝ったのよ。それは覚えてるけど。介護をお願いしてるのはこっちよ。なのに自分の不注意で怪我をさせた。本当にごめんなさいって。だから、知ってるって。かよ子さんはずっと一生懸命だったわ。あんたが残業とか言って不倫相手と遊んでる間も、かよ子さんは寝たきりの老人二人の世話をしてたのよ」

「だから、かよ子は嫁だったし……」

「私がかよ子さんの立場だったらね、あんたなんて捨てて実家にでも帰ってるわ」

「それは母さんの話だろう」

「それくらい大変なことをさせてたの。その恩を返すことの、一体何が悪いって言うのよ」

「だからって、これは……俺だって家を引き払ってんだぞ。どうするんだよ。せめて、荷物と一緒に実家で世話になるくらい……」

「あんたがかよ子さんを捨てた時にね、私とお父さんもあんたという息子を捨てました。あんたみたいな恩知らずは、もう息子じゃありません」

数日後、健二がかよ子のもとに押しかけてきた。

「おい、お前で満足かよ」

「満足? 何を言ってるの?」

「俺の人生をめちゃくちゃにして、満足かよ」

「そういえば、あの引っ越しの日、あの後に雨が降ってたわね。大丈夫だった?」

「大丈夫なわけないだろう。引っ越し業者はさっさと帰っちまうし、家具や家電が届いても別荘に入れなくて野ざらしだ」

「あら、それはご愁傷さま」

「俺と舞衣の荷物も一緒に全滅だよ。全滅。今は舞衣の実家で世話になってるけど、引っ越せたのは数日後だ。その間野ざらしだったもんだから、全部ゴミになった」

「そうですか。残念でしたね」

「何を他人事みたいに。最近じゃ職場でも、俺と舞衣の不倫の噂が回ってて。くそ、なんでこんなことに」

「噂? ああ、佐藤さんね」

「佐藤だと」

「ええ、前に言ったでしょ。佐藤さんには不倫の証拠を掴むため、情報をもらったの。あの後、不倫が発覚したから伝えてたのよ」

「ってことは、佐藤の野郎がこの噂を……あいつ、最近やけに距離を置いてくると思ったら、そういうことか。お前もお前だ。何で佐藤に不倫のことを話してんだ」

「最初から不倫調査で協力してもらったのよ。私から言わなくても、遅かれ早かれじゃない」

「だとしても、確定はしてなかったはずだ」

「自分が協力したことの顛末くらい、知りたいでしょう」

「だからってなあ。そんなことしたらどうなるかくらい分かるだろう」

「それもこれも、全部自業自得よ」

「会社での立場も、金も、親も、別荘も、全部お前のせいでなくなった。返せよ。俺の人生、返してくれよ」

かよ子は静かに言った。

「今、返せって言った?」

「そうだよ。お前がめちゃくちゃにしたんだろう。それを返せって言ってんだ」

「だったら、私の十八年を返してよ」

「え?」

「あなたが言ってくれた老後の穏やかな生活。かばってくれた時のあなたの言葉。それだけを頼りに、私は十八年間を過ごしてきたの。その時間を私に返してよ」

「いや、それは……」

「介護とパートで疲れて、自分の身だしなみにも気を使えなくて、髪だって肌だっていつもボロボロで。それでもいつか将来はあなたとの時間があるから、そう思って過ごしてきた私の十八年を返せ」

「返せって言われても、返せるもんじゃないし……」

「だったら、あなたに文句を言う資格なんてない」

健二はうつむいて、小さく言った。

「かよ子、俺が悪かったよ」

「この期に及んで、何の謝罪よ」

「俺が悪かった。だから、せめて慰謝料だけは取り下げてくれないか。今、二百万も払えないんだよ。このままじゃ、舞衣の実家だって追い出される。舞衣だって俺に愛想を尽かすかもしれない。だからな、頼むよ」

「……このタイミングでそんなことを言えるあなたが、あなたの全てが、もう本当に無理です。これ以上、私の人生に干渉しないでください」

「そんな寂しいこと言うなよ。お前に頼るしか、俺は……」

「これ以上、私の人生から何も奪わないで。これから先の私の人生は、もうあなたには関係ないことよ」

その後、健二と舞衣さんは、舞衣さんのご実家を追い出されたそうだ。雨でダメになった家具や家電、その他の私物。それらの処分費を舞衣さんのご両親に出させた挙げ句、慰謝料二百万を払うため、ご両親の生活費にも手を出したんだとか。それがバレて、舞衣さんは絶縁となった。

その状況で仕事を辞めるわけにもいかず、今も二人揃って白い目にさらされながら働いているらしい。どこで暮らしているのかは知らない。ただ、二人が夢見ていた軽井沢の別荘での幸せな生活とは対極の、ボロ雑巾みたいな生活環境なんだろうなとは思う。

お母さんとお父さんは、今回の件が終わった後、施設へと入ることが決まった。ヘルパーさんを雇って私が様子を見に行ったりサポートをするという案も出たのだけれど、これ以上私に迷惑をかけたくないと言って、施設入りを決断した。意外と施設での生活は快適らしく、この間様子を見に行ったら、二人とも楽しそうにしていた。

私は今、お母さんたちから頂いた軽井沢の別荘で一人暮らしをしている。パートだった仕事も転職して、今は正社員として働いている。金銭的に余裕のある暮らしとはいかないけれど、自分の時間をゆっくりと過ごしている。

今は人生百年時代。失った時間は戻らないけれど、私にはこれからの人生がある。楽しいこと、苦しいこと、色々とあるでしょうが、私は自分だけの人生を楽しんでいこうと思っている。

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