式当日の朝、携帯が震えた。相手は、今日結婚するはずの男だった。「悪いんだけどさ、今日の結婚式、なしにしてくんない?」「は?何言ってるの?今からヘアメイク始まるんだけど」「他に好きな人ができたんだわ。ももかが妊娠した。だから今日の式、俺とももかの結婚式に変更しようと思う」「は?」「キャンセル料もったいないだろう。新郎だけ入れ替えるってこと」「私の親族や友人が半分いるのよ。新郎が知らない女に変わ…

式当日の朝、携帯が震えた。相手は、今日結婚するはずの男だった。「悪いんだけどさ、今日の結婚式、なしにしてくんない?」「は?何言ってるの?今からヘアメイク始まるんだけど」「他に好きな人ができたんだわ。ももかが妊娠した。だから今日の式、俺とももかの結婚式に変更しようと思う」「は?」「キャンセル料もったいないだろう。新郎だけ入れ替えるってこと」「私の親族や友人が半分いるのよ。新郎が知らない女に変わ...

式当日の朝、携帯が震えた。相手は、今日結婚するはずの男だった。

「悪いんだけどさ、今日の結婚式、なしにしてくんない?」

「は?何言ってるの?今からヘアメイク始まるんだけど。悪い冗談はやめて」

「俺、お前とは結婚できない」

「なんで?今日まで一緒に準備してきたでしょ?」

「他に好きな人ができたんだわ」

「式当日に言うこと?」

「いつ言おうか迷ってる間に今日になった」

「マリッジブルーでもこじらせたの?」

「違うって。実は半年くらい前から付き合ってて、その子が妊娠したんだよ。今朝検査したら陽性だったって言われたんだ。こんな気持ちでお前と結婚なんかできないだろう」

「本当にあなたの子なの?」

「当たり前だろ。だから俺はももかと結婚する。責任取らなきゃいけないからな」

「私への責任はどうなるのよ」

そこで彼は、信じられないことを言い出した。

「ちょっと相談なんだが、今日の式は、俺とももかの結婚式に変更しようと思う」

「はい?」

「キャンセル料がもったいないだろう。どうせ俺とももかも、いずれ式はあげなきゃいけないし。譲ってくんないかな」

「何言ってんの?」

「分かりやすく言うと、新郎だけ入れ替えるってこと」

「分かった上で、何言ってんだって聞いてんのよ。招待客の半分は私の親族や友人なのよ。新郎が知らない女に入れ替わって、納得するわけないでしょ」

「そこはお前がうまく説明しとけよ」

「もう会場に向かってる人もいるのよ」

「だから今連絡してるんだろう」

「遅すぎるでしょ」

「金なら俺が全額払うから頼むよ」

「私に全部払わせたあなたにお金なんてあるわけないよね」

「それが、まとまった金が近々入る予定なんだ」

「怪しい。騙されてんじゃないの?」

彼女は頭を整理しようとした。半年間、彼は裏で別の女と付き合っていた。妊娠までさせていた。そして今、式場と新居を譲れと言っている。

「また式の準備を一からやるって考えたら、ぞっとする。このまま使わせてくれたら楽できるじゃん」

「いやいや、準備してたの、私よ」

「あんなのだるいに決まってんだろう」

「私が気を使うことじゃないけど、お下がりの結婚式なんて、相手の女性が嫌がるんじゃない?」

「ももかはそういうの気にしないって」

「女いるかな?」

「じゃあお前の身内には、飯だけ食って帰ってもらうか」

「誰が納得すると思ってんのよ。頭おかしいの?」

「じゃあ今すぐ連絡して、お前の方だけ断ってくれ」

「みんな今日のために予定を開けてくれたのに」

「悪いな」

彼女は深く息を吸った。混乱して見逃していたが、これはつまり、半年も騙されていたということだ。ありえない。

「どっちもいい女だから選べなかったんだよ」

「ケースに並んだケーキみたいに言わないで」

「確かに昔からケーキ選ぶの苦手だったわ」

「お母さんはなんて言ってるのよ」

「おふくろは大賛成してくれてるよ。後継ぎができたって大喜びだ」

「親子してどうかしてるわ。不貞行為を容認するなんて」

「おふくろが言うには、ももかの方が愛嬌があって好きだって」

「ああ、そうですか」

「大体、後継がどうとか言ってるけど、まだ性別も分からないのに浮かれていいわけ?」

「母さんの勘は当たるんだよ。とりあえず今回は身を引いてくれ」

「次回があるみたいに言わないで」

「式場スタッフが近くにいるだろう。ドレスをお前のサイズより二つくらい下げたやつで、いくつか用意するよう言ってくんない?」

「よく私に頼めたわね」

「それと、新居のマンション、あれもももかに譲ってやってほしい」

「はあ」

「ずっとおかしいこと言ってるけど、マジで大丈夫?」

「金なら払うって言ってんじゃん。好きな額行ってくれたら、いくらでも払ってやるぜ」

「今までに一度も言われたことのないセリフを、最後に言われるとは」

「ごちゃごちゃ揉めてる暇はないんだよ。式と新居は譲れ。母さんもそうしろって言ってた」

「はい、話は終わり。お前は撤収」

「お前ら、覚悟しろよ」

一時間後。彼女は式場のスタッフに確認の電話を入れた。すると、予想通りの報告が返ってきた。

「ちょっと、あんた今すぐ式場に電話して。スタッフが片付け始めたのよ。すぐにやめさせて」

「結婚式は中止です。撤収作業の邪魔をしないでもらえますか?」

「式を譲ってくれるんじゃないの?」

「そんなこと言ってません」

「ももかさんはドレスを選んでる最中なのよ。今更中止なんてできるわけないでしょ」

彼女は冷静に言った。

「契約者は私です。解約の権利も私にあります。スタッフは私の指示に従っているだけです」

電話の向こうで、元婚約者の母親が怒鳴り散らしていた。

「あんた達に言われてない。お金ならいくらでも出すから」

「親子そろって、どうしてそんなに図々しいんですか?私がやめなさいって怒鳴ってるのに、完全に無視して片付けてるのよ。どういう教育受けてんの、この式場」

「契約者ではないお母さんの指示に従う義務は、彼らにはありませんからね」

「うちの招待客がロビーでごった返してるのよ。何とかしなさいよ」

「何とかするとしたら、『何ですか』としか言いようがありませんね」

「金を出したからって、何でも思い通りになると思ってんの?俺は息子の結婚式なのよ。新郎だけのものじゃない」

「黙りなさい」

すると、プランナーから連絡が入った。

「お義母さんが暴れて危険なので、警察を呼びますとのことです」

「は?ちょっと文句言っただけよ」

「スタッフと揉み合いになって、お皿を割ったそうですね」

「私たちは客よ。神様よ。そのくらい許しなさい。皿くらい、いくらだって弁償してやるわ」

「器物損壊です。シンプルに犯罪ですよ」

「覚えてなさい。こっちから慰謝料を請求してやるから」

「どうぞご自由に。当日なのでキャンセル料は発生します。後ほど請求しますので、請求書をお待ちください」

「だからこのまま使わせればよかったのよ。もったいない」

「中止になるようなことをしたのはあなた方でしょ。当然、料理も引き出物も全て使わせませんので」

「捨てるくらいなら、うちの親戚に食べさせなさいよ」

「あなたたちの口に入ることは、未来永劫ありません」

「なんてことすんのよ、あんた。鬼ね。対面に何て説明すればいいの?」

「新郎の浮気で新郎側が愛想を尽かしたと、正直に説明すればいいじゃないですか。恥をかくのはお母さんたちですよ」

「絶対に許さないから」

「大体、なぜそのまま結婚式を挙げられると思ったのかが、本当に謎なんですが」

「お金を払うと言えば譲ると思ったのよ。だってあなたは損しなくて済むでしょ」

「私が反撃して、予定が狂ったということですか?ゴミ箱に捨てたゴミが、その後どうなるかなんて気にしないでしょ」

「しまいには私をゴミ扱いですか?」

「ゴミ以下の汚い人間よ」

「お金の問題だけじゃない。この式には思いも詰まってたんです。簡単に『はいどうぞ』なんて使わせるわけがないでしょう」

「じゃあ、式費用の二倍出すわ。それなら問題ない」

「宝くじでも当てたんですか?」

「まあ、そんな感じかしら」

「では、そのお金で式を挙げ直せばいいんじゃないですか?今日の式は、私が何ヶ月も悩んで作り上げてきた式です。絶対に渡しません」

「二度手間になるじゃないの。本当にめんどくさい女」

「今は静かに、大人しく撤収を見届けてください」

数時間後。彼女は父親と、系列ホテルの個室で夕食を取っていた。

「あやか、疲れてないか?」

「大丈夫。お父さん、今日はごめんね。あんなことになっちゃって」

「あやかは悪くないんだから、謝る必要なんてない。あの後移動したホテルの個室、静かで良かったぞ。飯もうまかったしな」

「親戚や友人も、普通に楽しくご飯食べてくれて救われた。まあ、多少気を使わせたかもしれんが、みんなお前に寄り添ってくれたんだと思うぞ」

「うん。そうだね」

「俺はどちらかといえば、ほっとしてるんだ」

「どうして?」

「あんなクズ一家に、大事な娘をやらなくて済んだからな」

「お父さん…」

「入籍前に正体が分かって良かったじゃないか」

「確かにそうだね。でも、バージンロード歩くの楽しみにしてたよね」

「バカ言え。あんな男と結婚する方が、よっぽど親不幸だ。それにお前と歩く夢は諦めてないぞ」

「うん。そういう日が来るといいな」

「それより、あいつらだよ。式場での振る舞い、ひどかったらしいな」

「自分たちが被害者だって騒ぎ立てて、最後は本当に警察呼ばれたみたいだよ」

「ふっ。愚か者どもが。わしの娘を傷つけた挙げ句、恥の上塗りまでしやがって。身内にならなくてよかったって、今心から思ってる」

「ただ、このままじゃ終わらせられないな」

「え?」

「奴らには、きっちりと落とし前をつけさせてやらないと」

「頼もしいなあ」

「さあ、どうやって調理してくれようか」

翌日。元婚約者の母親から、電話がかかってきた。

「おい、あやか。母さんがすげえ怒ってるぞ」

「他人の母親が怒ろうと笑おうと、私には関係ないですね」

「あんな生意気な女、こっちから願い下げだって、血管切れるくらいぶち切れてた」

「あら、気が合いますね。私も同じことを思っていましたよ。こんな非常識な親子、こっちから願い下げです」

「なんで敬語なんだよ」

「もう他人なので」

「まあいい。喧嘩してる時間ねえんだわ。とりあえず新居のスマートロックのパスコード教えろよ。荷物運び入れたいからさ」

「あそこは私の名義で借りた、私の家ですよ。あなたたちに住む権利はありません」

「俺も不動産屋で書類に名前書いたぞ」

「あなたはただの緊急連絡先、連帯保証人ですよ」

「連帯保証人ってことは、俺も契約者と同じってことなんだよ。法律勉強しろよ、バカが」

「その言葉、そっくりそのままお返しします。そんな法律、どこの国にあるんですか?」

「うるせえよ。お前は式費用を全額払って、すっからかんのはずだ」

「それが何か?」

「お前に家賃払う余裕なんてもう残ってねえだろって話」

「心配には及びません。生活に困るようなことはありませんから」

「嘘つけ。お前みたいな地味な女にそんな金あるわけねえだろ。だから俺が助け出してやるよ」

「どんな泥棒根性ですか?」

「新居は俺とももかと母さんで住んで、お前に毎月家賃を払ってやる。月に五万。これでお前も潤って、俺らも家が手に入る。ウインウインってやつだ」

「駅前の新築マンションに五万で住めると思いますか?」

「それは元婚約者割引みたいなもんだ」

「割引く理由がありませんし、ただでさえ縁を切りたいのに、賃貸借契約の関係が続くのは嫌ですね」

「結婚式を台無しにした詫びとして、それくらいするのが大人のマナーじゃないのか」

「マナー?あなたに一番似合わない言葉ですね」

「うるせえよ」

「残念ですが、あのマンションにはもう誰も住めませんよ」

「は?どういうことだよ」

「明日、解約手続きをするんで」

「ふざけんな」

「敷金、礼金、違約金がかかって、ふざけんなと思ってるのはこちらなんですが」

「俺がアパートを解約したのは知ってんだろう?」

「知ってるから、すぐ入居できるよう手続きを進めました」

「母さんの家だって、もうないんだからな」

「はい。どういう意味ですか?」

「母さんも実家を売却したんだよ。今週中には出ないといけないってのに」

「実家を売ったんですか?」

「新婚生活は、母さんと俺とお前の三人で仲良く暮らす予定だったんだよ。まあ、ももかに変更になったけどさ」

「私に言わずに勝手に決めてたってこと?」

「サプライズにするつもりだったからな」

「そのサプライズを、誰が喜ぶと思ってるんですか?新居に行ったら母さんがいて、『今日から一緒よ』ってなったら、お前も感動して泣くかと思ってさ」

「恐怖の間違いでしょ。本当に結婚しなくてよかった」

「つべこべ言ってねえで、なんとかしろって言ってんだよ」

「私が助ける義理がありません」

「このままだと母さんまでホームレスになっちまうぞ」

「知ったことではありません。家を売ったお金があるなら、それでホテルにでも泊まればいいでしょ」

「それがまだ振り込まれてないんだ。金が入ったら母さんに必ず払ってもらうからさ」

「なんでお母さんのお金を当てにしてんのよ」

「五千万で売れたらしいんだ。敷金も式のキャンセル料も、好きなだけ請求していいから」

「当然請求しますが、交換条件には応じません」

「家を探してる暇がない。頼むからそのまま済ませてくれ」

「あなたたち親子は、なぜ人のおこぼればかりにあやかろうとするんですか?使わないものを再利用するだけじゃん。エコだよ、エコ」

「いくらお金をもらっても、私が選んだものをあなたたちが使うのが許せないんです」

「ももかは妊婦なんだぞ。公園で野宿しろって言うのか」

「神様っているんだなって、今実感してます」

「は?どういうことだよ」

「式を中止にして、私を救ってくれたからです」

「ごちゃごちゃ嫌味言ってないで、俺たちの住む場所を用意しろ」

「お断りです。公園でテント生活でも始めてください」

翌日。彼女の携帯に、見覚えのある写真が送られてきた。祖母の懐中時計だった。

「これ、見覚えあるよな」

「それ、おばあちゃんの形見の懐中時計。どうしてあなたが持ってるの?」

「老人ホームの方に挨拶に行ってきたんだ」

「嘘。あそこはセキュリティが厳しいはずよ。部外者が入れるわけないわ」

「それが簡単だったんだよ。前にお前と行った時の受付が通してくれたぞ。家族でもないのに、ありえない」

「その人に受付で泣き落とししたんだ。『先日の結婚式が中止になり、祖母が心配で』って、涙ながらに行ったら、すぐ通してくれたぞ」

「最低。あれだけの仕打ちをしておいて、まだ私を追い詰めないと気が済まないの」

「大げさだなあ。久しぶりに会いに来てやったんじゃん」

「誰も頼んでない」

「しかし驚いたよ。いつの間にかボケちゃってるし」

「え?」

「俺が誰かも分かってない感じだった」

「何もしてないよね」

「した」

「は?」

「話しかけても無視するから、むかついて蹴っただけだって」

「なんてことするのよ。抵抗できないお年寄りによくもそんなことができたわね」

「軽く蹴っただけだろ。騒ぐなよ」

「許さない。本当に許さないから」

「金は持ってなさそうだったから、この時計と財布をもらってきた。調べたら高級品らしくて、百万くらいにはなるだろう。これで新しい家の家具費用にするわ」

「返して。それはおじいちゃんの形見で、おばあちゃんの宝物なの」

「今更泣きついても遅えよ。お前が新居を譲らなかったから、こうなったんだぞ。自業自得だろ」

「警察に言うから」

「やめておいた方がいいんじゃないかな」

「どういう意味?」

「ばあちゃんに、また会いに行っちゃうかもな」

「金にしてもらうわ。俺以外だったらどうする?入居業者や介護師とかにいくらか握らせたり、方法はいくらでもあるんだよ」

「卑怯なやつ」

「それが嫌なら、三百万払え。また明日連絡する」

翌日、連絡が来た。

「誠意は見せてくれるんだろうな」

「朝から気分が悪くなる通知ですね」

「口の減らない女だな。金は用意できたのか?もし断るなら、ばあさんのとこにまた行くぞ」

「勝手に行ったらどうですか?」

「強がりな。じゃあ、今日も遊びに行ってくるわ」

「今日もわざと受付を通してあげますよ」

彼女は静かに言った。

「あなたの弱点はおばあちゃん。必ず仕掛けてくると思ってた。おばあちゃんも同じ意見だったから、協力してくれたんです。まさか蹴るなんて思いもしなかったけど」

「いや、あのばあさんは会話もできなかったんだぞ」

「あら、おばあちゃん喜びます。うまく演技できたかしらって心配してたので」

「は?ボケ芝居してたっていうのか」

「はい。まだまだしっかりしてるし、元気です」

「俺の顔見ても、ぽかんとしてたぞ」

「そうしないと、あなたが本性を現さないからですよ。祖母はこう言ってました。『外敵を駆除するには、餌に食いつくまで待つものだ』って」

「じゃあなんだ?俺が蹴ったのも、全部分かっててやられたってか?」

「ええ。『空手やってたから平気よ』って笑ってましたけど。そして、その様子は全て記録されています」

「どこから取ってんだよ」

「普通にスマホスタンドに立てかけてあったスマホですが、高画質で音声もばっちりです」

「はめやがったな」

「罠にかかる方が悪いんです。この動画を持って、先ほど父が警察に被害届を出しました。住居侵入と暴行罪あたりでしょうか?ああ、物も奪ってるので、強盗も追加ですね。警察の方も『これは悪質だ』っておっしゃってたみたいなんで」

「はっ、脅しは聞かねえよ。俺が今どこにいるか分からねえだろう」

「目的は不明ですが、新大阪駅ですよね」

「ああ。なんでそう思うんだ?」

「それは秘密です」

「とやってるところ悪いが、エアタグなら捨てたぞ」

「え?」

「小銭入れの中に縫い目を見つけた。その中に隠しあったから、外したんだよ」

「どうやって大阪まで運んだのよ」

「新幹線に乗りそうなやつの土産袋に突っ込んだだけだ」

「小賢しい男」

「被害届を取り下げろ」

「断ります」

「ばあさんがどうなってもいいのか」

「あなたが捕まるまで、自宅に避難させています」

「くそが」

「逃げるのは自由ですが、罪が重くなるだけですよ」

「分かったよ。返せばいいんだろ」

「盗んだ時点でアウトなんです。返したら帳消しになるなんて法律はありません」

「じゃあ、どっちにしたってダメじゃねえか」

「そうですよ。警察との鬼ごっこ、頑張ってください」

数分後。また電話が鳴った。今度は、元婚約者の母親だった。

「ちょっとあやかさん、あんた警察に通報したんですって」

「犯罪者を見つけたら通報するのが、市民の義務なので」

「今、達也から追われてるって電話があったの」

「ママに泣きつくなんて、手のかかる子ですね。お母さんも共犯で捕まる前に、息子さんを説得したらどうですか?」

「ふざけないでちょうだい。旦那になろうっていう人を警察に売るなんて、何考えてんの?」

「とっくに婚約解消してますよね。今更何を言ってるんですか?」

「それがね、話が変わったの。ももかの妊娠が、嘘だったのよ」

「はあ」

「あの子の髪や服がなんか臭いなと思って問い詰めたら、タバコ吸ってたの。妊娠なんかしてなかったってこと」

「それがどうしたんでしょう?」

「ひどいと思わない?嘘つき同士でお似合いじゃないですか?」

「人聞き悪いこと言わないでよ」

「他人ですよ」

「分からない子ね。元通りにしてあげるって言ってるの」

「どの『元』でしょう?できることなら、出会う前に戻していただきたいんですが」

「もう一度、うちの嫁として迎え入れてあげる」

「はい?喜ぶと思ってます?」

「あなた、婚約者に逃げられた傷物なのよ。そんな演技の悪い人と結婚してくれる人はいないと思うわ。だから、うちでもらってあげるって言ってるの」

「余計なお世話です」

「その代わり条件があるわ。今すぐ警察に電話して、被害届を取り下げるのよ」

「お断りします」

「はあ。どうしてよ。浮気相手はいなくなったのよ。一番の問題は解決したじゃない」

「浮気とか妊娠とか、そういう次元の話じゃありません。犯罪者とよりを戻すなんて、ごめんです」

「大げさねえ。おばあちゃんをちょっと蹴っただけでしょ」

「そう聞いてるんですか?八十二歳の女性を蹴ったんですよ」

「え?そうなの?でも、生きてるのよね」

「では、あなたのことを蹴らせてください」

「それはやめてよ。痛いし。怖いのは嫌だわ」

「都合が良すぎますって」

「とにかく達也は騙されただけなの。全部、あのももかって女が悪いのよ」

「どっちもどっちでしょ」

「あの女、ひどいのよ。『結婚式を挙げる場所が高級ホテルで、借りた家も高級賃貸だから金持ってると思って近づいた』って、はっきり言ったんの」

「そうですか」

「なのに結婚式は使い回そうとするし、家も追い出されて住めないから、逃げたわけですね」

「そういうことみたい。ひどいと思うでしょ」

「人のせいにしないでください。浮気したのも罪を犯したのも、息子さん自身です」

「あんた、それでも妻なの?夫のピンチを助けるのが、内助の功でしょうが」

「何度言わせるんですか?完全なる他人です」

「いいから警察に電話して、『違いました』って言いなさいよ」

「お金を積まれても嫌です」

「お願いよ。達也がかわいそうでしょ」

「実刑は免がれないでしょうね。執行猶予がつくかどうか」

「私の可愛い達也が前科者になる。どうしてくれんのよ」

「前科だけじゃありません。慰謝料、式のキャンセル料、祖母の治療費、締めて五百万円。請求書送りますね」

「あの子に払えるわけないじゃない」

「息子さんが払えないなら、お母さんに払っていただきます」

「家を売ったお金が入るから払う。だからあの子を助けて」

「まずは払うものを払ってから、お願いしてくださいね」

翌日。今度は元婚約者の父親から、電話がかかってきた。

「達也君、今警察に追われて大変なことになっている」

「そうだね」

「お父さん。娘や妻が随分と世話になったな」

「あんたが被害届なんか出すから、逃げるはめになったんだぞ」

「まあ、落ち着きなさい。実はね、少し提案があって連絡したんだよ」

「なんだよ」

「私は『劇場建設』という会社の代表をしている」

「あの県内トップのゼネコンの?」

「そうだ。ちなみに、娘もうちの会社の役員だ」

「マジかよ。なんであやかは言わなかったんだ」

「昔から金を目当てに寄ってくる輩が多くて、娘も随分と痛い目にあったんだよ。だから君のことを金目当てじゃないと判断し、結婚を決めた」

「そうだったのか」

「まあ結局、騙されたわけだが」

「何の連絡だよ。クレーム自慢話か」

「うちは公共工事がメインでね、県の本部長や地元の議員先生とも深い付き合いがあるんだよ」

「それってもしかして」

「そう。私が一本電話を入れれば、今回の件を穏便に済ませることができるかもしれない」

「マジっすか?助けてください。俺、刑務所なんて絶対嫌なんです」

「ただし条件がある。あやかへの慰謝料、式のキャンセル料、そして私の母への治療費。合計五百万を即金で支払うこと。そして、心からの謝罪をすることだ」

「でも、お金なんてないし、実家も売ったんです」

「金というものは、黙ってて振ってくるものじゃないぞ」

「分かりました。働いて返します。いつまでかかるか分かりませんが、必ず」

「悪いが信用できないので、一括で払ってもらうよ」

「分かりました」

「交渉成立だな。では、正式な話をしよう。今から私の会社に来なさい」

「すぐ行きます。一生ついていきます。お父さん」

「『お父さん』と呼ばれる筋合いはないが、まあいい。急いで来なさい。社長室で待ってるぞ」

数時間後。彼女は父親と、社長室のモニターを見ていた。

「お父さん、ナイス演技。あいつ、本当に信じたね」

「あんな見え透いた嘘に引っかかるとは、本当に救いようのないアホだな」

「警察に顔が効くなんて、全部はったりなのにね。警察の捜査を妨害なんてしたら、こっちが捕まってしまうわ」

「でもこれで、本社ビルにのこのこやってくるわけだ」

社長室には、すでに刑事が到着していた。部屋に入った瞬間、御用となる手はずだった。

「なんで私が許さないのに、お父さんが許すと思ったんだろう。クズの考えることは分からんな」

「ひとまずは、娘を傷つけ、母を侮辱した罪を償ってもらおう」

「ありがとう。これでやっと終わる」

「ああ。さあ、今夜はごちそうだ」

「お父さん、次こそはバージンロードを一緒に歩くね」

「楽しみにしてるよ」

翌日。元婚約者の母親から、最後の電話がかかってきた。

「嘘つき!裏切り者!」

「私が何の嘘をつきました?一貫して『息子さんは犯罪者だ』と言ってきました」

「捕まったのよ」

「みたいですね。悪いことをしたので」

「あんたには情ってもんがないの?」

「どうしてもブーメランなことばかり言うんですか?当日浮かれる私をどん底に突き落としたのは、あなたたちじゃないですか?」

「自分の魅力が足りなかったことを反省しなさい」

「へえ。そういうこと言うんですか?」

「何よ」

「いえ、今後息子さんに弁護士がついて示談交渉の提案があったとしても、強く拒否しようと決意しただけです」

「え?」

「あなたのせいですよ。息子さんを追い込みましたね。恨まれないといいんですが」

「待って。ごめんなさい。あなたを傷つけたこと、悪いと思っている」

「遅すぎます」

「お父様も立派な方だったらしいじゃない。さすが品が違うと思ってたのよ」

「品のない嘘つき女を選んだのに、よく言いますよ」

「そうなの。本当にももかってやつは品がなくて。でも、会ってないのになぜ知ってるの?」

「式場スタッフが『お母さんは鼻をほじりながらドレスを選んでた』って教えてくれました」

「やだ。品のないこと。あなたとは大違いねえ」

「手のひら返ししても無駄ですよ」

「うん。許してくれない?いいところのお嬢さんなんだから、心も懐もきっと広いでしょ」

「気持ち悪いです」

「え?」

「態度を急に変えたり、ころころ意見を変えるところとか、吐きそうなくらい気持ち悪い」

「それはちょっと言いすぎじゃないかしら」

「ヘラヘラしてんじゃないわよ。あなたの老後は、刑務所に通うだけの日々ね。犯罪者の母として、肩身の狭い思いをして生きていけばいいわ」

「そんなの嫌よ」

「じゃあ、息子を切り捨てるんですか?私みたいに」

「そんなことはないけど…」

「一つだけ、頼みがあるの」

「何でしょう?」

「実家の庭掃除でも何でもするから、私だけでも少しお金をくれないかしら」

「なぜそんなにお金に困ってるんですか?家を売って五千万入るんですよね」

「それが、契約した会社と連絡が取れなくて」

「まさか」

「騙されちゃったみたいなのよ。警察にも相談してるんだけど、まだ捕まらないの」

「ちゃんと契約の内容とか確認したんですか?」

「老眼でよく見えないし、五千万に浮かれちゃって、うっかりしちゃった。権利書も全部持っていかれたままよ」

「はあ。それは気の毒だと思いますが、私には手を差し伸べる義理もございませんので、これにて失礼いたします」

「待ちなさい。こっちはあんたみたいなブスでいいって言ってやってんのに、なんで喜ばないのよ」

「ご自分は人のことをとやかく言える顔ですか?」

「本当に困ってるの?三十万だけでも貸してくれないかしら。アパートを借りるお金もないのよ」

「あなたの慰謝料になる人が不便なので、河川敷にでも引っ越してください」

「そんなこと言わないでよ」

「二度と連絡すんな。クズの根源が」

その後、彼女はももかに対して、婚約中の不貞行為として慰謝料百五十万円を請求した。「知らなかった」という言い訳は通じず、ももかは支払いのため夜の町で働いているという。

元婚約者の達也と義母には、式のキャンセル料、新居の敷金・礼金、不貞の慰謝料を合わせて総額五百万円を請求した。家も車も家具も全て差し押さえられ、義母は息子を恨みながら絶望している。

達也は祖母への暴行と強盗容疑で逮捕され、手錠をかけられて連行されていった。出所後も待っていたのは本当の地獄だった。住所不定で雇ってくれる場所はなく、義母が住む雨風吹き込む段ボールハウスが実家だと知り、膝から崩れ落ちたという。コンビニの廃棄弁当をカラスと奪い合い、通りすがりの若者に石を投げられて「臭いんだよ」と蹴り飛ばされる毎日。寒さと飢えで震えるその姿に、人間としての尊厳など欠片もない。

一方、彼女はセキュリティ万全のマンションを購入し、誠実な彼と出会って温かい家庭を築いた。式では約束通り父とバージンロードを歩いたが、ずっと泣いている父に会場中から笑いが起きた。その涙の意味を知っている彼女は、ただ嬉しくて、こんなに泣いてくれる父を持ったことを誇りに思っている。

暖房の効いた部屋で食べる鍋料理は、あの人たちが二度と味わえない幸せだ。一生、泥水をすすって生きてほしいと思う。

あの日、私を捨ててくれてありがとう。今、最高に幸せです。

Thumbnail