「貧乏人には軽食で十分だろう。」
シャンデリアの光が降り注ぐホテルの大宴会場に、その声はよく響いた。出席者の視線が一斉に集まる。地元最大手企業の取引先パーティー。高級スーツを着た男たちがグラスを傾ける中、一つのテーブルだけに粗末な小皿が置かれていた。
「君、この場がどういう場か分かってるか?ここにいる方々は皆、それなりの実績を持った経営者ばかりだ。社員十名の会社が来る場所じゃない。」
その男はパンを静かにテーブルに置いた。ナプキンで口元を拭い、ゆっくりと立ち上がる。
「おい、まさか怒ったのか?十人の会社が怒ったところで何が変わる。いいか、君の会社の規模じゃ、潰れても業界の誰も困らない。それが現実というものだ。」
会場の空気が一瞬で張り詰めた。男はまっすぐ静かな声で言い放った。
「それは、あなたの会社も同じでしょう。」
「何?私が誰だか知っていて言っているのか?」
「ええ、もちろん。大手建設会社の大沢社長。」
「なんだ、強がりか。潰れても困らないと言ったことが、そんなに嫌だったか。」
「ええ、そうですね。やはり二十二年前から、あなたは何も変わっていない。」
「二十二年前?何のことだ。」
「いえ、思い出さなくて結構です。俺は今日、これを言いに来ました。あなたの会社を潰します。」
「聞いたか、黒木。十人の会社がうちを潰すとよ。」
「これは決定的ですね、社長。今夜一番の冗談ですよ。」
「どうぞ、どうぞ。せいぜい頑張ってみなさい。」
周囲から笑い声が漏れた。男の口元に静かな笑みが浮かんだ。しかし、この大手建設会社の社長はまだ知らなかった。この後、二十二年前に自分がしたことの代償を払うことになるとは。
東京都内の雑居ビル三階。朝八時の日差しが古びた窓枠を通して差し込む中、統制興産のオフィスは静まり返っていた。社員十名の小さな法人。投資運用を目的に設立した個人会社だ。机の上には目立った装飾もない。
一人の男が窓際の席で黙々と書類をさばいていた。霧島正司、四十歳。量販店で買った紺色のスーツを十年以上着続け、ネクタイは無地のグレーで結び目が少し歪んでいる。靴底はすり減り、腕時計は安いデジタル式のものだった。
「本日の合同会ですが、出席で確定してよろしいですか?」
デスクの向こうに立つのは津田涼子、三十六歳。統制興産の秘書であり、父の工場時代から正司を知る幼馴染みでもある。涼子は正司にとって、言葉にしなくても思いを共有できる唯一の存在だった。
「ああ。出席者リストを確認しました。大沢建設の大沢専務と、専務の黒木祐介も参加予定です。」
一瞬、正司の指が止まった。書類をさばく手が止まったのはほんの一瞬で、涼子以外の人間には気づけなかっただろう。大沢建設。二十二年前、父の工場から全てを奪った男がいる会社。こめかみの奥がかすかに脈打つのを感じながら、正司は表情を変えずに書類へ視線を戻した。
「分かった。名刺は統制興産のものだけを持っていく。」
「統制工業の名刺は出さない、ということですね。」
「そうだ。」
涼子はクリップボードを静かに机の上に置いた。一拍の間を置いてから、声を少しだけ低くして口を開く。
「本当にいいんですか?」
「ああ。」
それだけ答えると、正司は椅子から立ち上がった。ハンガーにかけてあった古いスーツに袖を通し、歪んだ結び目のグレーのネクタイを締め直す。デジタル時計の画面を一瞬だけ見つめた。その目に、涼子は十九年間一度も見たことのない鋭い光を感じ取っていた。
「お気をつけて。」
涼子はそれだけを伝え、オフィスを後にする正司の背中を見送った。
目を閉じると、今でも旋盤の音が聞こえてくる。油の匂いがする。二十二年前の冬のことだ。正司はまだ十八歳だった。学校が終わると毎日工場に顔を出し、父の手伝いをするのが当たり前になっていた。
「正司、そっちの鉄板を切り出してくれ。」
「分かった。」
父・霧島健一が営む町工場・統制工業は、従業員七名の小さな鉄工所だった。油の匂いと旋盤の音が絶えない場所。健一は無口で不器用な男だった。どんなに苦しい時でも背筋を伸ばし、荒れた手のひらと古い傷を誇りにしていた。
ある日の午後、工場の前に黒塗りの高級車が止まった。降りてきたのは背の低い、恰好のいい男。大沢建設の三代目社長、当時四十歳の大沢竜三だった。正司は工場の隅で資材の切り出し作業をしていた。男は健一を事務所へ連れ込み、ドアが閉まった。
うちはもっと大きな会社と組むことにした。お前んとこじゃ話にならん。
壁越しに響く怒鳴り声に、正司の手が止まった。旋盤の音が止み、工場の中に大沢の太い声だけが響いている。
「十年以上お付き合いですよ。そんな急に、約束が違います。」
「約束?そんなもん知らん。うちは前に進むんだ。足手まといはいらん。」
「せめて猶予いただけませんか。三年。いや、三ヶ月あれば新しい取引先を。」
「甘えるな。今日で終わりだ。」
「お考え直しいただけませんか。うちの製品の品質はどこにも負けていないはずです。」
「品質の問題じゃない。規模の問題だ。うちはもっと大きな相手とやる。それだけの話だ。」
一方的な取引の打ち切りだった。三十分後、事務所から出てきた父の顔は蒼白だった。唇が震え、拳を握りしめたまま健一はしばらく立ち尽くしていた。背の低い男はすでに黒塗りの車に乗り込み、去っていく。正司は工場の隅からその光景を見つめていたが、父の目を直視することができなかった。
その夜、壁越しに父が必死で電話をかけている声が聞こえた。
「はい。はい。分かりました。どうかもう一度だけお願いできませんか。うちの職人は本物です。絶対にご期待に応えます。……そうですか。あ、はい。失礼しました。」
声がかすれていた。電話が切れた後も、父はしばらく動かなかった。正司は布団の中で拳を握りしめたまま、天井を見つめ続けた。
翌朝、健一は何も言わず旋盤の前に立ち、黙って手を動かし始めた。その背中を、正司は直視できなかった。
「親父、悔しくないのか?」
正司はどうしても我慢できずに尋ねた。健一は旋盤の前に立ったまま視線を外さずに答えた。
「悔しいさ。だったら、どうする?」
「だったら、怒ればいいじゃないか。」
「悔しいからって手を止めるわけにはいかん。工場を回さなきゃ、みんなの給料が出ない。」
正司は黙った。父の背中がいつもより小さく見えた。しかし旋盤を握る手だけは、少しも震えていなかった。しばらくして健一が口を開いた。
「鉄は叩かれるほど強くなる。人間も同じだ。踏まれた分だけ根が深くなる。根の深い木は、嵐が来ても倒れない。」
「よく分からないよ。」
「そのうち分かる時が来る。それより、俺も仕事手伝うよ。」
「バカ言うな。お前は学校があるだろう。行ってこい。」
「でも……」
「いいんだ。」
不器用な親子の、不器用なやり取りだった。
しかし、大沢建設の取引打ち切りは連鎖を引き起こした。信用不安が広がり、二社が相次いで取引を中止し、統制工業の資金繰りは急速に悪化していった。三年後、健一は過労で倒れた。工場と家庭を往復するだけの生活を三年間続け、体が限界を迎えたのである。
「親父、大丈夫か?」
「正司、すまんな。心配をかけた。」
「何言ってんだ。黙って寝てろ。」
「工場を頼む。」
病院のベッドで健一は息子の手を握った。油と鉄の匂いが染みついた、職人の手だった。
「いいか正司。本物の仕事は言い訳をしない。嘘もつかない。どんな時でも、ちゃんとそこにある。お前がそういう仕事をし続ければ、それがお前の答えだ。それだけで十分だ。」
「親父……」
それが最後の言葉だった。健一は五十二歳で息を引き取り、正司は二十一歳で工場を引き継いだ。父の言葉と背中を胸に刻んだまま、十九年間手を動かし続けてきた。
当日、正司は地元最大のホテルに到着した。グランドボールルームの入り口では、受付の女性が参加者を丁寧に迎えている。正司が統制興産の名刺を差し出すと、受付の女性の表情に戸惑いが浮かんだ。周囲の出席者が差し出しているのは、誰もが知る大手企業の名刺ばかりだったからである。
会場に足を踏み入れると、シャンデリアの光が降り注ぐ華やかな空間が広がっていた。正司は安物の紺色のスーツのまま、会場の隅のテーブルについた。
「いやあ、今期も大沢建設は絶好調だ。地元の再開発案件、うちが全部取ったな。」
「さすがでございます。社長でなければ、あの案件は取れませんでしたよ。」
周囲の男たちが追従の笑いを浮かべる中、その男は満足そうにロレックスの袖をまくった。大沢竜三、五十八歳。大沢建設の三代目社長である。その背後で大沢の言葉にいち早く頷く男がいた。黒木祐介、五十五歳。大沢建設の専務であり、二十年間大沢の顔色だけを見て生きてきた男である。
「おい、黒木、あの男を見ろ。あのスーツ、量販店のじゃないか。身の程違いにも程があるな。」
「ネクタイの結び目も歪んでいますね。」
「腕時計もデジタルだ。よくあんな格好でこの会に来られたもんだ。」
「船乗りの勘違いか、空気が読めないのか。食事を確認いたしましょうか。」
「ああ、頼む。」
黒木が正司のテーブルに近づき、名刺交換を申し出た。正司が差し出した統制興産の名刺を一瞥した瞬間、黒木の眉がわずかに上がった。
「統制……さん。失礼ですが、初耳でして。社員は何名ですか?」
「十名です。」
「十名?そうですか。」
黒木は名刺を返しながら、遠慮のない目で正司の服装を上から下まで眺めた。そのまま大沢の元に戻り、耳打ちする。
「社員十名の小さな会社だそうです。統制とかいう、聞いたこともない法人で。」
「十名。そんな小さな会社が、よく来られたな、ここに。」
「全くです。」
大沢はグラスを傾けたまま正司の方をちらりと見て、全身を一瞥した。どこからどう見ても、安物のスーツを着た何の変哲もない中年にしか見えなかった。大沢の口元がじわりと歪んだ。
「黒木、あの男には軽食だけで十分だ。フルコースはもったいない。」
「承知しました。」
黒木は給仕係を呼び止め、声を潜めて指示を出す。
「あちらのテーブルの方には、軽食だけで結構です。」
給仕係が戸惑った様子で一瞬だけ正司を見たが、黒木の目を見て小さく頷いた。数分後、周囲のテーブルにフルコースの料理が運ばれる中、正司のテーブルにだけ明らかに趣の違う小皿が置かれた。パンと小さなサラダ。それだけである。
周囲の視線が正司に集まったが、正司は表情を変えずに小皿に口をつけた。大沢がニヤニヤしながら正司のテーブルに近づいてくる。
「失礼だが、売上はどのくらいで?」
「いや、お答えするほどでも、小さな会社ですので。」
大沢が大げさに笑い声をあげた。周囲の出席者が振り返る。
「小さな会社ね。社員数十名と聞きましたが、うちの経理部より人数が少ないですよね。」
「全くですなあ。」
嘲笑の笑い声が広がる中、大沢はさらに正司との距離を縮めた。香水の匂いが正司の鼻をつく。周囲に聞こえるよう声を張り上げた。
「貧乏人には軽食で十分だろうなあ、黒木。」
「おっしゃる通りです。」
大沢はさらに続けた。
「君、この場がどういう場か分かってるか?ここにいる方々は皆、それなりの実績を持った経営者ばかりだ。社員十名の会社が来る場所じゃない。」
「全くです。お帰りいただかないと。」
正司はパンを静かにテーブルに置いた。ナプキンで口元を拭い、ゆっくりと立ち上がる。
「おい、立ち上がってどうする気だ?まさか怒ったのか?十人の会社が怒ったところでね。」
「黒木、その通りだ。小さい会社が怒っても、何も変わらない。いいか、君の規模じゃ、潰れても業界の誰も困らない。それが現実というものだ。」
会場の空気が一瞬、凍りついた。正司は大沢をまっすぐ見据えた。変わらない静かな声で言い放つ。
「それは、あなたの会社も同じでしょう。」
「何?私が誰だか知っていて言っているのか?」
「ええ、もちろん。大手建設会社の大沢社長。」
「なんだ、強がりか。潰れても困らないと言ったことが、そんなに嫌だったか。」
「ええ、そうですね。やはり二十二年前から、あなたは何も変わっていない。」
「二十二年前?何のことだ。」
「いえ、思い出さなくて結構です。俺は今日、これを言いに来ました。あなたの会社を潰します。」
会場が静まり返った。グラスを傾ける音すら止まり、出席者全員の視線が正司と大沢の間に集中する。数秒の沈黙の後、大沢が黒木と顔を見合わせた。そして腹を抱えて笑い出す。
「聞いたか、黒木。十人の会社がうちを潰すとよ。」
「これは決定的ですね、社長。今夜一番の冗談ですよ。」
「どうぞ、どうぞ。せいぜい頑張ってみなさい。」
周囲からも笑い声が漏れた。正司の口元に静かな笑みが浮かんだ。振り返ることなくテーブルを離れ、会場を後にする。背中に大沢の笑い声が追いかけてきた。
「おい、見たか?あの男の顔。面白いものを見せてもらったよ。」
正司は振り返らなかった。ホテルのロビーに出た瞬間、冷たい夜の空気が頬を打った。二十二年前からずっと、この日を待っていた。父の鳴き声が聞こえた夜からずっと。正司はゆっくりと冷たい空を見上げた。
翌朝、統制興産のオフィス。正司がドアを開けると、涼子はすでにデスクについていた。目の前には複数のファイルが整然と並べられている。正司が何を求めているか、涼子には分かっていた。正司が来る前に、すでに動いていたのである。
統制興産は社員十名の小規模法人だ。しかし正司にはもう一つの顔がある。父から引き継いだ十九年間かけて育て上げた精密部品メーカー、統制工業。年商二千億。業界では名の知れた存在だが、地元ではメディア取材を一切断ってきた。昨夜の合同会に統制興産の名刺だけを出したのも、そのためだ。大沢はまだ知らない。自分が嘲った男が、どこに立っているかを。
「おはようございます。昨夜のうちに確認を進めました。」
正司はコートを脱ぎ、黙って椅子に腰を下ろした。涼子がファイルの一つを開き、正司の前に滑らせる。
「大沢建設の下請けのリストです。現在大沢建設が主要工事で使用している下請け会社は十二社。うち、何社がうちと繋がっていますか?」
「四社です。統製、統製テクノ、三和精工、丸山製作所。この四社が統製工業と直接取引関係にあります。」
「詳しく聞かせてくれ。」
涼子は次のファイルを開いた。供給の流通経路を示す図表が記されている。涼子の動きには無駄がない。必要な情報だけを、必要な順序で並べていく。
「統製と統製テクノの二社は、統製工業が筆頭株主です。残りの二社、三和精工と丸山製作所は独立法人ですが、統製工業が主要取引先として売上の四割以上を占めています。」
「つまり、四社が統製工業の意向に従わざるを得ない構造か。」
「その通りです。そしてここが重要なのですが、大沢建設の現場を支えている鉄鋼部品、精密ボルト、特殊溶接剤のかなりの数量が、回り回って統製工業グループから供給されています。」
正司は椅子の背にもたれた。天井を見上げ、ゆっくりと息を吐く。二十二年前、父の工場を「足手まとい」の一言で切り捨てた男が、自分が踏みにじった相手の手の上で商売をしていた。その事実が胸の奥で、焼き鈍された鉄のようにずっしりと重く沈んでいく。
「大沢社長は、この事実をご存知ないでしょう。直接取引しているのは下の四社であり、その先の供給元まで確認する習慣がありません。」
「そうだろうな。先代の遺産で今の地位についたあの男は、自分の足元を見ない。下請けのことは全て部下に任せきりなのでしょう。」
正司はカップに手を伸ばし、コーヒーを一口含んだ。温かい液体が喉を通る感覚が、強張っていた体を少しだけほぐしていく。涼子はファイルをもう一つ開いた。
「統製と統製テクノ、二社との契約更新は来月に控えています。条件の見直しを通知する場合、今週中に書面を出す必要があります。残りの二社は、三和精工が半年後、丸山製作所が来年度の更新です。ただし、統製工業からの発注量を調整すれば、二社の経営判断にも影響を及ぼせます。」
「分かった。」
「それから、荒川会長にご連絡を入れますか?」
「頼む。明日にでも会いたい。」
涼子は頷き、すぐに受話器に手を伸ばした。荒川文六は先代からの取引先であり、先日の招待性合同会の主催者。正司の本当の立場を知る、唯一の人物である。
「荒川会長と、明日の午後、都内の料亭でお会いできるとのことです。」
「了解した。」
涼子はメモを取り終えると、ペンをデスクに置いた。少しだけ間を置いてから、静かに口を開く。
「お父様が見たら、何と言うでしょうね。」
正司は答えなかった。ただ窓の外を静かに見つめ、湯気の立つカップをゆっくりと口元に運ぶ。その横顔に、涼子はもう何も言わなかった。踏み込むべきではない領域がある。それを涼子は十九年の付き合いの中で学んでいた。
「四社の契約更新の件。書面の準備を進めてくれ。条件は、拍子に戻す。」
「承知。」
涼子は即座にパソコンに向かい、キーボードを打ち始めた。正司はカップを置き、ファイルに視線を戻す。大沢建設の経営状況、主要取引先の一覧、資本構成。涼子が一晩で集めた情報は正確で抜け目がない。
十九年前、二十一歳で引き継いだ工場は、従業員七名の吹けば飛ぶような規模だった。それが今では年商二千億の精密部品メーカーに成長し、その供給網は業界の隅々にまで広がっている。父が毎朝旋盤の前に立ち続けた場所から始まった仕事が、いつの間にか父を追い詰めた男の生命線を握る位置にまで到達していた。
「正司さん。三和精工と丸山製作所の件ですが、統制工業からの発注量を段階的に調整する形でよろしいですか?」
「ああ、急にゼロにする必要はない。あくまで契約条件の見直しだ。向こうが自分で判断すればいい。」
「大沢建設に直接手を出すわけではない、ということですね。」
「そうだ。俺たちは自分の取引先との契約を見直すだけだ。大沢建設がどうなるかは、結果に過ぎない。」
涼子はその言葉を聞いて小さく頷いた。正司のやり方は、父の教えに似ている。言い訳をしない。嘘もつかない。正当な取引の範囲で、静かに確実に動く。
翌日の午後、都内の料亭の個室。畳の上に正司と荒川文六が向かい合って座っていた。荒川は六十八歳。小柄で白髪だが、立ち居振る舞いに静かな重みがある。濃いチャコールグレーのスーツは上質だが派手さがなく、腕時計はシンプルな国産品。先代の時代から統制工業を見守り続けてきた人物である。
「昨夜の件は、もう耳に入っている。」
「早いですね。」
「率直に言おう。何も知らずに招いて、すまなかった。あいつは自分より弱いと思った相手には遠慮がない。昔からそうだった。」
庭に面した障子の向こうから鳥の声が聞こえていた。二人の間に置かれた茶碗から、薄い湯気が立ち上っている。荒川は茶をゆっくりとすすり、茶碗を畳の上に静かに戻した。正司の目をまっすぐ見据えたまま、口を開く。
「それで、どうするつもりだ?」
「会場で言った通りです。あの会社を潰します。」
荒川は少し間を置いた。障子の向こうで鳥が鳴き、水の音がかすかに聞こえる。静寂が二人の間に流れた後、荒川が口を開いた。
「健一さんのことは、私もずっと気になっていた。」
正司の手がかすかに止まった。父の名前が荒川の口から出るたびに、胸の奥に鈍い痛みが走る。二十二年前の冬の夜、壁の向こうで電話をかけ続けていた父の声。翌朝、旋盤の前に立つ父の背中。荒川もまた、その記憶を共有している数少ない人間の一人だった。
「好きにしなさい。」
「ありがとうございます。」
「ただし、一つだけ言っておく。健一さんは、お前がやろうとしていることを望んでいたか?」
「分かりません。ただ、俺はやり返さずにはいられません。」
「そうか。なら、動けばいい。ただし、動くなら最後まで動きなさい。中途半端が一番良くない。」
「はい。」
「私も、最後まで見守るとするか。」
荒川はそれ以上何も言わなかった。この二人だけが共有する時間が、静かに流れていく。
料亭を出た直後、正司のスマートフォンが震えた。涼子からの短いメッセージである。「統制工業との取引四社、契約更新の見直しを通知しました。」
正司はその画面を一瞥し、静かに伏せた。外の空気が冷たかった。季節はもう、冬に向かい始めている。
合同会から四日が過ぎた朝、大沢建設の本社ビルに異変が起きた。経理部から大沢の社長室に直接報告が上がったのである。
「社長、下請け四社の動きがおかしいんです。契約更新の条件が、拍子に戻されたという通知が立て続けに届いています。」
「なんだと?どういう意味だ?」
大沢はデスクから身を乗り出した。ロレックスをはめた手首が、机の上で震えている。
「四社とも同時期です。偶然とは思えません。」
「黒木、すぐに調べろ。何が起きてる?」
「はい!」
黒木は社長室を飛び出し、経理部と営業部を走り回った。電話をかけ、メールを確認し、過去の契約書を引っ張り出す。下請け四社の担当者に連絡を取ったが、どの会社も歯切れが悪い。
「統製さん、契約条件の見直しとはどういうことですか?」
「申し訳ございません。弊社の主要取引先から、条件の再検討を求められておりまして。」
「主要取引先とは、どこですか?」
「それは、申し上げられません。」
二時間後、黒木が社長室に戻った時、その顔は青ざめていた。報告書を手にしたまま、ドアの前で数秒間立ち尽くしている。
「黒木、何をしている。早く報告しろ。」
「…全て、統制工業の関連会社です。」
「統制工業だ?」
「年商二千億の精密部品メーカーです。下請け各社の主要取引先であり、うち二社は統制工業が筆頭株主になっています。」
大沢の顔が固まった。ペンを握っていた指が止まり、そのまま机の上に転がる。
「億…。それが、うちの下請けと繋がっているのか。」
「はい。そして、その統制工業の代表が、個人で別会社を持っています。」
「別会社?」
「統制興産です。社長の名前は、霧島正司。」
大沢の顔が、みるみる青ざめていった。
「正司…?まさか、あの時のあの男が、統制工業の社長だというのか。」
「…そのようです。」
しばらく沈黙が続いた。大沢の額に、じわりと汗が滲んだ。
「なぜだ?なぜそんな男が、うちの合同会に来ていたんだ?」
黒木は蒼白な顔のまま、何も答えられなかった。答えようがなかった。名刺を確認したのは自分である。軽食を指示したのも自分である。
「お前が全部確認しておくべきだったんだ。統制興産の一枚の名刺だけ見て判断するとは何事だ?」
「申し訳ございません。」
「申し訳ございませんじゃない。うちの取引先が全部、連鎖的に止まりかけてるんだぞ。」
「重ねてお詫び申し上げます。」
「謝って済む問題じゃない。二千億の会社の社長を、貧乏人と嘲ったんだぞ。しかも、あの場には荒川会長もいた。」
その言葉を口にした瞬間、大沢は顔面蒼白になった。
「まずい。このままでは、非常にまずい。」
黒木は何も答えられなかった。大沢が自分の非を認めたのは、初めてだった。全ては自分の軽率な判断だということを、大沢は怒鳴り声の裏側で痛烈に自覚していた。
翌日の朝、大沢建設の車両が統制興産のオフィスが入る雑居ビルの前に停まった。大沢と黒木が慌ただしく車を降りる。
「黒木、土産は持ったか?」
「はい、車に。」
大沢の額には汗が浮かんでいた。三階につき、統制興産のドアを開けた大沢を、受付の社員が静かに応接室へ案内した。
「霧島はただいま、別の対応中です。しばらくお待ちください。」
「分かった。待つ。」
待たされた。十分、二十分、三十分。大沢は革張りのソファに座ったまま、何度も腕時計を見て貧乏揺すりを繰り返していた。ロレックスの針が、無情に時を刻んでいく。黒木は大沢の隣で直立したまま、身動きしない。二十年間、主人の隣で黙って立つという習慣が、今もなお染みついている。
四十分が過ぎた頃、ようやくドアが開いた。正司が静かな表情のまま入り、大沢の向かいに腰を下ろす。涼子がその後ろに控え、ドアを閉めた。
「霧島さん、先日の件は申し訳なかった。あれは、冗談のつもりだったんだ。笑って流してもらえないか。」
正司は何も答えなかった。ただ静かに大沢を見ている。その視線には、怒りも軽蔑も浮かんでいない。ただ静かに、目の前の人物を見据えているだけである。大沢の目が泳いだ。沈黙が重い。
「あの、条件の件も考え直してもらいたい。今後はうちも誠意を持って対応する。なんなら、条件面で優遇もする。」
「大沢さん。」
正司がゆっくりと口を開いた。声は穏やかだが、その底に鉄の芯が通っていた。
「二十二年前の冬のことを、覚えていますか?」
「二十二年前?」
「あなたが黒塗りの車で、小さな町工場に乗り付けた日のことです。」
大沢の表情がわずかに揺れた。眉間にしわが寄り、記憶をたぐるように目を細める。
「統制工業。私の父、霧島健一の工場でのことです。」
大沢の口が半開きになった。椅子の上で体が硬直し、両手が膝の上で握りしめられている。黒木が息を飲む音が聞こえた。応接室の空気が一瞬で張り詰める。
「私は工場の隅にいました。あなたの顔を、一瞬だけ見ていた。」
「お前が、あの時の息子か?」
「ええ、十八歳でした。」
大沢の顔が蒼ざめた。椅子の上で体が硬直し、両手が膝の上で握りしめられる。隣に立つ黒木も、息を飲んだまま動けない。
「あの日、あなたは三十分で帰りました。十年以上の付き合いを、足手まといの一言で終わらせて。」
「そ、それは、当時の経営判断でやむを得ず…」
「その判断が、父の人生を変えました。」
大沢の唇が震えた。視線が正司から外れ、床を彷徨って戻ってこない。
「連鎖的に二社が離れました。うちの工場は資金繰りに行き詰まった。」
「それは、しかし、当時はそこまでの影響があるとは…」
「影響がないと思ったのですか?取引を一方的に打ち切って、影響がないと。」
大沢は答えられなかった。正司の言葉には怒りがない。責めてもいない。ただ事実を述べているだけである。それが余計に重かった。
「その夜、父が泣いていました。」
大沢が口をつぐんだ。椅子の上で身じろぎし、額の汗が一滴、床に落ちる。
「壁越しに聞こえていました。声がかれるまで、何度も頭を下げていた。あの声は、今でも耳に残っています。」
「そ、それは…」
「父は三年後に亡くなりました。五十二歳でした。過労でした。」
正司の声が、わずかに低くなった。膝の上で、静かに拳が握られる。
「あなたは今日まで、何も知らずに生きてきた。うちの父が何を失ったか、俺が何を背負ってきたか。十九年間、一度も知らなかった。」
「本当に、知らなかったんだ。申し訳なかった。本当に申し訳ない。取引を戻してほしい。条件は何でもいい。頼む。」
大沢が椅子から身を乗り出し、縋りつくように言葉を並べる。しかし正司は答えなかった。静かに右手を上げた。それだけで、大沢の言葉が止まった。
「謝罪はいりません。」
「ですが…」
「一つだけ、聞かせてください。」
「何でも答える。」
「もし俺が今も、社員十名の小さな会社の経営者のままだったら、あなたは今日、ここに来ましたか?」
大沢の口が動いた。しかし、声が出なかった。視線が宙を泳ぎ、どこにも着地できない。
「それが、あなたの答えです。親父が味わった苦しみを、しっかりと噛みしめてください。」
正司は静かに立ち上がった。胸の奥で、父の言葉が響いていた。鉄は叩かれるほど強くなる。踏まれた分だけ、根が深くなる。十九年分の重みを背負ったまま、正司は部屋を出た。涼子が正司の後に続き、ドアを閉めた。
廊下に出た瞬間、正司の足が止まった。壁に手をつき、深く息を吐く。肩が小さく震えていた。十九年間ずっと胸の奥に押し込めてきたものが、少しだけ溶けていくのを感じていた。涼子はその背中をそっと見つめた。手を伸ばしかけて、止めた。今は、何も言わなくていい。そう思った。
「車を回してあります。」
「ああ。」
それだけだった。二人は黙ってエレベーターに乗り込んだ。並んで立ったまま、どちらも何も言わなかった。言葉にしなくても伝わるものがあった。十九年間、ずっとそうやってきた二人だった。
応接室には、大沢と黒木だけが残された。大沢は椅子に沈み込んだまま動けなかった。さっきまで威勢よく笑い飛ばしていた男が、別人のように縮んでいる。額の汗が頬を伝って、床に落ちた。
「黒木…俺が、間違っていたのか?」
「社長…」
「答えろ。何か言え。」
黒木は唇を震わせたまま、何も言えなかった。大沢は両手で顔を覆った。指の隙間から、かすれた声が漏れる。
「二千億の会社の社長を、公衆の面前で貧乏人と笑った。しかも合同会のメインスポンサーを荒川会長の前で。もう、終わりだ。」
誰も否定しなかった。応接室に、重い沈黙だけが残った。
その後、業界内に情報が静かに広がり始めた。大沢建設が統制工業系列の取引先を一斉に失ったという話が、商工会の会合や業界の懇親の場で囁かれるようになったのである。
荒川が動いたのは、正司との料亭での面会から一週間後のことだった。業界紙の取材に、荒川は静かにしかし明確に答えた。
「私が霧島さんをあの合同会にお招きしたのは、今回のメインスポンサーだったからです。統制工業の支援がなければ、あの会は成立しなかった。最も丁重にお迎えすべき方が、最も軽く扱われた。それだけのことです。」
翌週、業界紙にその内容が掲載された。記事は業界全体に波紋を広げた。大沢建設の主要取引先から、立て続けに契約見直しの申し入れが届き始めたのである。大沢建設の営業部に、電話が鳴りやまなかった。
「率直に申し上げて、大沢建設との関係が弊社の信用に影響を及ぼす可能性を懸念しています。」
「取引先の選定基準を見直す時期に来ていると考えています。」
「社内からも懸念の声が出ておりまして。」
どの取引先も、丁寧な言葉の裏に明確な意思を込めていた。黒木が走り回るが、流れは止まらない。
「社長、取引見直しの申し入れが、新たに三社増えました。東亜建設、丸和工業、久保田…」
「久保田まで離れるのか。そこは親父の代からの付き合いだぞ。」
「先方は霧島さんの件を理由には挙げていません。あくまで、経営方針の見直しだと。」
「嘘に決まっているだろう。全部、あの件が原因だ。」
大沢はデスクを拳で叩いた。しかし、その音は虚しく響いただけで、何も変わらなかった。地元商工会でも、緊急理事会が招集された。
「知らなかったことが問題なんです。小さな会社の経営者だったとしても、嘲笑していいことにはならない。大沢さん、辞任届を出していただけますか?」
「待ってくれ。霧島さんには、直接お詫びに行った。」
「関係ありません。もう、すでに遅いんです。何もかも。」
大沢は答えられなかった。隣に黒木はいない。主人の背後に立ち続けてきた男が不在の理事会で、大沢は初めて一人で表に立たされていた。
しかし、これはまだ始まりに過ぎなかった。大沢建設の崩壊は、静かにしかし止めようのない速度で進行した。取引先の離脱が連鎖し、資金繰りが急速に悪化したのは、合同会から二ヶ月後のことである。大沢は慌てて連絡を取ろうとしたが、電話を繋がらなくなっていた。
「おい、西村さんにつないでくれ。至急だ。」
「西村様のオフィスから、折り返しはないとの回答です。」
「バカな。二十年の付き合いだぞ。じゃあ、藤原さんだ。」
「藤原様も、本日はご不在とのことです。」
「なぜだ?なぜ、誰も出ない?」
「他の方にもかけましたが、いずれもご多忙とのことです。」
大沢がようやく気づいた。長年、人脈と呼んできたものは人脈ではなく、利害だった。価値がなくなった途端に、電話に出なくなる。二十二年前、統制工業にしたことと、全く同じことを今度は自分がされていた。
その翌日、黒木が自ら社長室を訪れた。
「長い間、お世話になりました。」
「お前まで、俺を見捨てるのか?二十年だぞ。二十年間、一緒にやってきたじゃないか。」
「私には、もうここでできることがありません。」
黒木は一礼して、社長室を出た。二十年間、大沢の顔色だけを読んで生きてきた男は、主人を失った途端に何もできなくなった。転職先を探したが、業界内での評判はすでに地に落ちていた。大沢の太鼓持ちとして知られた男を、どこも雇おうとしなかった。自分の言葉で話したことがない男には、面接で語れる実績が何一つなかったのである。黒木のその後を知るものは、業界内に誰もいなかった。
ある夜、大沢が帰宅すると、妻が子供たちを連れてリビングに座っていた。テーブルの上に、一通の書類が置かれている。
「なんだ、これは?」
「離婚届です。」
「何を言っている?」
「子供たちと話し合いました。もう、ここにはいられません。」
「待て。会社のことは、必ず立て直す。だから…」
「会社の話じゃないんです。」
妻は静かに、しかしはっきりと続けた。
「あなたが人前であんなことをする人だと、私は知らなかった。」
「子供たちも、学校で何を言われているか、もう限界です。」
「子供たち、お前たちも同じ気持ちなのか?」
子供たちは答えなかった。ただ母親の隣で俯いたまま、動かなかった。その沈黙が、何よりも重かった。
三ヶ月で終わった。会社だけではなかった。全てが終わっていた。
大沢は誰もいない会議室に一人で座っていた。長いテーブルに両手をつき、自分の手を見つめていた。この手で、何かを作ったことがあるだろうか。祖父が起こし、父が育てた会社を、ただ受け取っただけだった。自分の手で積み上げたものは、何一つなかった。
「親父…俺は、何をやってたんだ?」
誰もいない会議室に声が反響して消えた。蛍光灯の音だけが、静かに響き続けていた。
一方、正司がその夜を知ることはない。正司にとって大沢は、もう過去の人間だった。興産のオフィスで涼子から大沢建設の状況報告を受けた時、正司は静かに頷いただけである。
「大沢建設は、事業の縮小に入ったようです。」
「ああ。」
「黒木専務も辞任したとのことです。」
「そうか。」
「商工会の役職も辞任。主要取引先の離脱は、七社に達しました。終わりましたね。」
「ああ。全て、終わった。」
正司は窓の外を見つめていた。肩の力が抜けていくのを感じた。胸の奥で二十二年間張り詰めていた糸が、ゆっくりと溶けていく。空気が軽くなった。窓の外の空が、少しだけ広く見えた。涼子はそれ以上、何も聞かなかった。正司の横顔に浮かんでいたのは、勝利の激昂でも復讐の快感でもなかった。ただ、静かな安堵だけがそこにあった。
半年後の春。統制工業の本社で記者会見が開かれた。霧島正司と荒川文六が並んで壇上に立ち、「荒川物づくり財団」の設立を発表したのである。地元工業高校生や若い職人への技術支援と奨学金給付を目的とした財団で、統制工業の工場を月に一回、見学体験の場として解放する取り組みも含まれていた。
「かつて理不尽に潰されかけた工場が、今度は若い職人を育てる場所になる。これほど嬉しいことはありません。」
「父が残した工場から始まったことです。次の世代に手渡すのが、自分の仕事だと思っています。」
記者会見の後、オフィスに戻った正司のデスクに、涼子が近づいた。
「奨学金の応募が、予定の三倍を超えました。工場見学の申し込みも、来月の枠はすでに埋まっています。」
「そうか。」
涼子は報告書をデスクに置き、少しだけ間を置いた。
「お父様が見たら、何と言うでしょうね。」
涼子が同じ言葉を口にしたのは、これで二度目だった。前回は答えなかった。しかし今日、正司は少し間を置いてから口を開いた。
「怒りはしないと思う。」
涼子は小さく頷いた。そして静かに続けた。
「私、覚えているんです。正司さんが二十一歳で工場を引き継いだ日のことを。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰って。一度も愚痴を吐かなかった。」
「そうだったか。」
「お父様の旋盤、正司さんが毎朝磨いていましたよね。誰にも言われずに、ずっと。」
正司は答えなかった。ただ窓の外を見つめていた。
「あの頃から、いつかこういう日が来ると思っていました。」
涼子の声が、わずかに揺れた。目元が光っている。いつも冷静な涼子が、十九年間で初めて涙をこぼした。
数日後、一通の手紙が届いた。工場見学に参加した地元工業高校の生徒からである。正司は封を開けた。丁寧だが、少し不慣れな字でこう書かれていた。
「旋盤の前に立って、初めてやりたいことが分かりました。統制工業で働くことが、今の私の夢です。」
「いい手紙ですね。」
「親父が聞いたら、照れ臭そうな顔をしていたと思う。」
正司はその手紙を静かに折り、胸のポケットに入れた。本物の仕事は、言い訳をしない。嘘もつかない。どんな時でも、ちゃんとそこにある。お前がそういう仕事をし続ければ、それがお前の答えだ。それだけで十分だ。
復讐は終わった。正司は胸のポケットに手を当てたまま、窓の向こうの空を見上げた。春の光が、工場の屋根を温かく照らしていた。



