「あの箱と手紙、処分しましたよ」——そう言った嫁の顔が、今も目に焼きついています。夫が亡くなる3日前、病院のベッドで震える手を伸ばして「これだけはお前が持っていてくれ」と渡してくれた、たった5文字の「ありがとう」が書かれた最後の手紙。私は息子夫婦と同居するため、あの家を離れた。家事をすべて担い、孫の面倒も見た。それなのに、私が病院へ行っている間に、私の部屋は勝手に片付けられ、夫の形見はゴミと…
「ああ、あそこに置いてあったやつですか。邪魔だと思って処分しましたよ。古い写真と髪しか入ってなかったので、もしかして大事なものでした?」 私はしばらく意味が分からなかった。古い写真と髪。はい、もう黄ばんでいましたしね。胸の奥がすっと冷たくなった。 「みささん、その箱の中の……あの手紙」 私は震える声で言った。 「正さんが亡くなる3日前に私へ書いてくれた手紙だったのよ」 みさの表情が止まった。長男の浩司も黙ってこちらを見ている。でももう遅い。夫が最後に書いてくれた「ありがとう」。たった5文字の手紙はもう処分され、どこにもありませんでした。 全てを失ったと言ってもいい。その夜、私は決めた。息子夫婦の家を出よう、と。 — 私の名前はさち子。65歳。夫の正さんを失ったのは5年前のことです。大きな病気が見つかってから入退院を繰り返し、最後の半年はほとんど病院で過ごした。 夫が亡くなった後も、私は二人で暮らしたい家に一人で住み続けていた。朝は庭の花へ水をやる。近所の友人と散歩する。夕方には仏壇の正さんへ「今日はこんなことがあったのよ」と話しかける。年金は多くありません。でも贅沢さえしなければ十分だった。 寂しくないといえば嘘になる。それでも私は私なりに穏やかに暮らしていた。 そんな生活が変わったのは2年前です。浩司から電話があった。 「母さん、相談があるんだけど」 転勤をきっかけに、浩司一家が地元へ戻ってくることになった。住宅ローンに仕事、小学2年生の娘・ゆい奈の子育て。全部を夫婦二人でこなす生活が思った以上に大変だと言った。 「母さん、俺たちと一緒に暮らさない? 一人より安心だろ。もちろん母さんに無理させるつもりはないから」 私は迷った。夫との思い出が詰まった家を離れたくなかったから。でも家族の役に立てるなら——そう思い、自宅は売らずに貸し出し、長男夫婦の家へ移ることにした。 — 同居を始めた頃、みさは本当に優しかった。 「お母さんが来てくださって助かります。ゆい奈も喜んでるんですよ」 その言葉通り、ゆい奈は毎朝「おばあちゃん、おはよう」と抱きついてきた。可愛くて可愛くて、私は家族と暮らせることを嬉しく思った。 朝は5時半に起きる。朝食を作る。浩司のお弁当を詰める。洗濯をして部屋を掃除する。夕方には孫を迎え、宿題を見てあげる。夕食を作り、片付けまで済ませる。気づけば私は一日のほとんどを家族のために使っていた。 でも苦ではなかった。 「お母さん、ありがとうございます」 「さち子、本当助かるよ」 その一言があれば十分だったから。 ところが、1年ほど経った頃からその言葉が少しずつ消えていった。 ある朝のこと、味噌汁を出すとみさが言った。 「お母さん、今日ちょっと薄くないですか?」 「あら、ごめんなさい。次は気をつけるわね」 別の日には—— 「洗濯物なんですけど、この畳み方だとしまいにくいです」 また別の日には—— 「買い物する時、もう少し安い店を見てください」 最初は笑って受け流していた。私も年だから、若い人には若い人のやり方がある。そう思っていた。 でもある日、ふと気づいた。以前は「ありがとう」の後にお願いされていたことが、いつの間にか「こうしてください」に変わっていた。手伝いだったはずの家事が、いつの間にか私の仕事になっていた。 そして浩司は何も言わない。新聞を読み、スマホを見る。聞こえていないふりをする。 私は自分へ言い聞かせた。家族なんだから、これくらい。その言葉でずっと飲み込んでいた。 — そんなある日、病院から定期検査のお知らせが届いた。夫と同じ病気を早く見つけるために、私は半年に一度検査を受けている。 「来週の火曜日、朝から病院へ行ってくるわね」 そう伝えると、みさが言った。 「その日、私も仕事が忙しいので、できれば早く戻ってきてもらえます? ゆい奈のお迎えがあるので」 「分かったわ。検査だけだから、お昼には戻れると思う」 でも当日、病院は混んでいて検査は予定より長引いた。先生から「今のところ大きな異常はありません」と言われ、ほっとして病院を出た頃には午後1時を過ぎていた。 急いで帰らなくちゃ。そう思いながら家へ向かった。 玄関を開けて自分の部屋へ入った瞬間——え? 部屋が変わっていた。 窓際に置いていた夫の古い椅子がない。本棚の位置まで変わっている。押入れを開けると、中の衣装ケースまで並び替えられていた。 誰かが私のいない間に私の部屋へ入った。それだけで胸がざわついた。 しばらくするとみさが帰宅した。 「あら、お母さんもう帰ってたんですね」 「みささん、私の部屋どうしたの?」 「ああ、なんでもないことよ。片付けておきました」 … Read more