ローンを完済した翌朝、ポストに赤い封筒が入っていた。管理組合からの臨時総会の通知。開けてみると、特別徴収300万円、管理費は4倍に。35年かけて手に入れた家が、たった一枚の書類で一瞬にして揺らぎ始めた。夫の次郎は言った。「おかしいだろう」。でも誰も耳を貸さない。息子に助けを求めたら、泣きながら逆に300万円を貸してくれと言われた。夫は黙って家を担保に入れ、契約書には理事長の名前があった。私が…
午後2時、マンション1階の集会室にはすでに20人近い住民が集まっていた。長机が並び、正面に理事の席が用意されていた。千代子と次郎は後方の席に並んで座った。次郎はいつものスーツ、それも倉庫の仕事を辞めてから数えるほどしか袖を通していない紺色の上下を身につけていた。ネクタイはしていない。それでも背筋を伸ばし、膝の上に両手を置いて視線を理事席に固定していた。千代子は紺のシャツの上にカーディガンを羽織っていた。手元にはあの赤い封筒の書類と自分でまとめたメモ、数字を確認するための小さなノートも忍ばせていた。 2時5分、理事長の塚本茂が前に出てきた。55歳くらいで、手入れの行き届いたグレーのスーツに淡いブルーのネクタイ。きっちりと七三に分けられた髪、金縁の眼鏡の奥の目は穏やかな笑みを称えていた。話し方は柔らかく、しかし一言一言がよく通る声だった。塚本は手元のタブレットを操作しながら、スクリーンに資料を映し出した。配管の腐食状況を撮影した写真、エレベーターの点検記録、2026年に施行された新しい昇降機設備安全基準の条文の抜粋。専門用語が並ぶ資料だったが、説明は分かりやすく淀みなかった。 「皆様がご心配なのはよく分かります」と塚本は切り出した。「これは私個人の意見ではなく、第三者機関の診断結果です。旧排水管はすでに耐用年数を大きく超えており、いつ漏水事故が起きてもおかしくない状態です。エレベーターについても同様で、最新の安全基準を満たしていません。これを放置すれば、資産価値の低下だけでなく、実際の事故、人命に関わる事態すら想定されます」 塚本はスクリーンに古い配管の断面写真を映した。錆びついた金属の内側が赤茶色に変色していた。会場の何人かが小さく息を飲む音が聞こえた。 次郎が手を上げた。塚本がそれを認めると、次郎はゆっくりと立ち上がった。声は低く、しかし揺るぎなかった。 「質問させてください」と次郎は言った。「この診断はどこの会社が行ったものですか?理事会の中に、この会社と利害関係のある方はいらっしゃいますか?」 会場が一瞬静まり返った。塚本の表情は全く変わらなかった。診断会社の名前を淀みなく答え、理事会のメンバーに利害関係者はおりません、必要であれば契約書も開示します、と付け加えた。 次郎はさらに続けた。「300万円という金額の根拠をもう少し詳しく説明して欲しい。なぜ全戸一律なのか。広さや使用年数による差はないのか」 塚本は一つ一つ丁寧に答えていった。声を荒げることは一度もなかった。むしろ次郎の質問に感謝するような口ぶりで、「ご指摘はもっともです。しかし、共用部分の修繕である以上、専有面積による負担割合の調整は規約上難しい部分があります」と説明を重ねた。 次郎はなおも食い下がった。「今すぐ全額を払えない世帯はどうなるのですか?」 塚本はここで初めてわずかに表情を曇らせた。「本当に申し訳ないのですが」と前置きしてから言った。「この工事は先延ばしにできるものではありません。仮に一部の世帯が支払いを拒めば、工事全体の着工が遅れます。その間に万が一、配管の破裂やエレベーターの事故が起きたら誰が責任を取るのでしょうか。私たちはここに住む全員の安全のために、心を鬼にして提案しているのです」 その言葉が落ちた瞬間、会場の空気が変わった。前方の席に座っていた中年の女性が小さく頷いた。別の席からも「そうだそうだ」というつぶやきが漏れた。 千代子はその空気の変化を肌で感じ取った。さっきまでは次郎の質問に静かに耳を傾けていた人々が、今は次郎の方をわずかに咎めるような目で見ていた。 塚本はさらに付け加えた。「最近このマンションに越してこられた方々の中には、こうした老朽化リスクを十分に理解した上で購入を決められた方も多い。皆さんが安心して住み続けられるようにという思いで、理事会は提案をまとめました」 会場の前方に座る、30代から40代と見える夫婦らしき数組が力強く頷いていた。比較的新しく入居した世帯だということが、その服装や雰囲気からも分かった。 次郎は座らずに、なおも何か言おうとした。しかし塚本が先に口を開いた。 「お気持ちはよく分かります。長くお住まいの方ほど急な負担は厳しいでしょう。ですが、このまま放置すれば建物全体の資産価値が下落し、結局は皆さん全員が損をすることになります。今この場で決断しなければ、手遅れになるのです」 その一言が議論に終止符を打つように響いた。採決が取られた。挙手による多数決だった。 賛成多数で、特別徴収300万円及び月額管理費・修繕積立金の4倍への改定が可決された。次郎は最後まで手を上げなかった。隣で千代子も上げなかった。しかし周囲を見渡すと、反対の意思を示したのはほんの数人だけだった。大半は賛成に手を上げているか、何も言わずに俯いているかのどちらかだった。 会が終わると、人々は集会室を出ていった。塚本は出口付近に立ち、何人かの住民と握手を交わしながらにこやかに言葉を交わしていた。千代子と次郎が通り過ぎる時、塚本は軽く会釈をした。 「小田桐さん、何かご不明な点があればいつでも理事会の窓口にご相談ください」 千代子は会釈だけ返して何も言わなかった。次郎は塚本の目をまっすぐ見たが、やはり何も言わずに通り過ぎた。 エレベーターに乗り込んでから、次郎は壁にもたれかかった。乗っているこのエレベーターも、まさにこれから更新工事の対象になるのだと千代子はふと思った。 部屋に戻ると、次郎は上着を脱いでソファに座り、しばらく動かなかった。千代子は台所でお湯を沸かし、いつもの時間ではなかったが紅茶を入れた。次郎の前にカップを置くと、次郎はそれを両手で包むように持ち、ゆっくりと息を吐いた。 「おかしい」次郎はもう一度言った。「今日の会議の進め方も、あの塚本という男の喋り方も、全部おかしい」 だが、何がおかしいのか具体的に指摘することが次郎にはできなかった。それがまた次郎の苛立ちを深くしているようだった。 千代子は次郎の向かいに座り、書類をもう一度広げた。徴収期限は6ヶ月後。今からどう対応するか、現実的に考えなければならなかった。 夕方になり、2人は黙ったまま簡単な夕食を済ませた。会話は少なかった。食器を片付けた後、千代子はしばらく台所に立ったまま窓の外を見ていた。次郎は数独のノートを開いたが、ペンは進まなかった。何問か手をつけては途中で止まり、また別のページを開いた。 夜9時を過ぎた頃、千代子はリビングの電話の前に座った。受話器を手に取り、しばらく画面を見つめてから登録されている番号の中から、リツトを選んだ。呼び出し音が4回、5回と続いた。千代子の指先がわずかに冷たくなった。出ないかもしれないと思い始めた時、回線が繋がった。 「もしもし」リツトの声がした。少し驚いたような構えたような声だった。母からの電話自体が珍しいことを示していた。 千代子は務めて静かに、順序立てて話した。マンションの老朽化のこと、臨時総会のこと、300万円の特別徴収のこと。声に焦りを出さないよう、事実だけを丁寧に並べた。 話を聞いている間、リツトは相槌すら打たなかった。電話の向こうが妙に静かだった。 千代子は最後に本題を切り出した。「申し訳ないけれど、少しの間でいいから300万円ほど貸してもらえないか。後で必ず返す。年金からでも少しずつ返していくから」 言い終えた瞬間、電話の向こうからくぐもった音が聞こえた。最初は何の音か分からなかった。しかしそれはすぐに、嗚咽だと分かった。リツトが泣いていた。 千代子は驚いてリツトの名前を呼んだ。リツトはしばらく言葉にならない声を漏らした後、ようやく話し始めた。途切れ途切れの声だった。 「実は自分も事業の運転資金の返済で行き詰まっている。取引先への支払いが滞り、このままでは自分が刑事責任を問われるかもしれない。会社を畳んでも借金だけが残る。母さんに心配かけたくなくて言えなかった」 千代子の頭の中で世界が逆転した。助けを求めるために電話をかけたはずなのに、いつの間にか助けを求められる側になっていた。 リツトは声を震わせながら約束した。「今回だけ何とかしてくれたら、必ず取り戻す。落ち着いたら母さんたちをこっちに呼んで一緒に暮らそう。あのマンションは売って損が出ても構わない。それくらい自分がどうにかするから、もう心配かけないようにする」 電話を切った後、千代子はしばらくソファに座ったまま動けなかった。次郎が部屋から出てきて、千代子の様子に気づいた。 「どうした」と聞いた。 千代子はゆっくりとリツトとの会話の内容を伝えた。次郎の顔色が変わった。話を聞き終えると、次郎はテーブルを軽く叩いた。 「バカな」と低い声で言った。「あいつは自分の始末もできないのか。こっちが切羽詰まっている時に、何を泣きついてきているんだ」 千代子は反論した。「でも、もし本当に刑事責任を問われるようなことになったら、リツトの人生が終わってしまう」 次郎は声を荒げた。「だったら俺たちの人生はどうなる?俺たちだって今まさに崖っぷちだ」 千代子は黙った。次郎の言うことは正しい。頭では分かっていた。でもリツトの嗚咽がまだ耳に残っていた。一人息子の声だった。生まれた時から知っている声だった。 2人の間で押し問答が続いた。次郎は何度も「自分の家を守ることが先だ。リツトは大人なのだから自分で何とかすべきだ」と繰り返した。千代子はその度に「でも」と返した。明確な反論ではなく、ただ突き離すことができないという感情だけが言葉になっていた。 次郎は最後に「もう知らない」と言って寝室に引っ込んだ。ドアは静かに閉められたが、その静かさがかえって千代子の胸に重く響いた。 翌日、千代子は一人で最寄りの銀行支店に向かった。次郎には何も告げなかった。窓口で手続きをする時、行員が「こちらは老後の生活資金としてお考えのものですか?よろしいですか?」と確認した。千代子は「はい」と答えた。声は揺がなかったが、署名するペン先はわずかに震えていた。 口座にあった400万円のうち、千代子は全額を引き出した。そのうち300万円をその場でリツトの口座に振り込んだ。残りの100万円は現金で受け取り、封筒に入れて鞄の奥にしまった。 家に戻ると、次郎はリビングで数独を解いていた。千代子が戻ってきたことに気づいても顔を上げなかった。千代子は鞄から封筒を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。それから静かに言った。 「振り込んだ」 次郎の手が止まった。ペン先がノートの上で止まったまま、しばらく動かなかった。次郎はゆっくりと顔を上げた。その目には怒りというよりも、もっと冷たい何かが宿っていた。失望というのとも少し違う。長年連れ添った相手が、自分の知らないところで自分の意思を踏み越えて決断を下したという事実そのものへの驚きだった。 次郎は何も言わずに立ち上がり、寝室に入った。ドアが閉まる音がした。その音は昨夜よりも大きかった。 千代子はリビングに一人残された。テーブルの上には100万円の入った封筒と、管理組合からの赤い封筒が並んでいた。マンションの特別徴収300万円には、まだ一円も当てられていなかった。 千代子はソファに腰を下ろし、しばらく天井を見上げていた。何かを考えようとしたが、思考がまとまらなかった。ただ、家の中の空気がこれまでとは違う重さを持ち始めたことだけ、はっきりと感じていた。 … Read more